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    「水豊ダム素描」(その1)



    これは戦争中に完成した東洋最大のダムで、今なお北朝鮮で用いられている。本文は昭和19年にかかれたもの。

    なお、
    ダムマニア
     

    ダムマニア - Dam Mania -

    水豊ダム

    1937年から1944にかけ、日本国が中国(満州)に建設したダム。
    重力式コンクリートダムとしては、世界最大級だった。
    建設開始から4年後の1941年には、一部水力発電を開始、完成後は最大出力70万kwとなった。
    このダムで発電された電力は、朝鮮及び満州に送電されていた。
    時が経ち、朝鮮戦争。1952年6月23日、この水豊ダムは攻撃目標にされた。
    米軍機が次々に空爆をおこなったが、決壊させることはできなかった。
     
    ダム
    ダム建設のため、鴨緑江を堰き止めている様子。
    日本の旗と、満州の旗が見える。
    ダム
    対岸まで約900m。
    上の写真のものが連なっているのであろうか。
    ダム
    徐々に鴨緑江が堰き止められ、
    ダムの基礎ができてきた。
    ダム
    堤体の建設。
    ダム
    建設中のダムの下を河川が流れている。
    ダム
    下流より堤体を眺める。
    ダム
    着々と高さを増してきた。
    右の建物は発電所らしい。
    ダム
    建設中だが、よく見ると越流してますね。
    ダム
    迫力の写真。
    建設中のダムの堤体越流。
    ダム
    ほぼ完成であろうか。
    白く見える筋は放流された水?
    ダム
    白さがまぶしい。
    ダム
    クレストゲートからの放流。
    白黒写真でも迫力を感じる。
    ダム
    発電機。
    ダム
    下流左岸川より堤体を眺める。
    ダム
    引いたアングルで堤体を眺める。右に発電所が見える。
    ダム
    天端より下流を眺める?
     




     京義線定州駅を出た支線平北鉄道の列車は、寂寥々たる境域の風景の果て、この列車が125粁(キロメートル)走りこんだ奥に「日本がなした世紀の偉業」といふべき「水豊ダム」が存在し、その世界最大級のダムは、殆んど完成を見せて、大東亜戦下、科学日本の素晴らしい力量を誇示して、兵站(へいたん)半島に負荷された決戦生産に、大いなる力を効してゐるのである。

     定州駅を出て、列車はいよいよ国境の山奥く入つて午後「水豊」に着いた。踏み堅められた路の雪を靴の下にキユツキユツと鳴らしながら「水豊ダム建設事務所」へ歩く。晴れ渡つた冬の日の風は、凍へついた雪の肌に定着させられて、あたりの枯草一つさゆらがぬ中で、寒さはキンキン冴へかへつてゐた。僕はスチームのきいた事務所に走り込んだ。さうして八島所長にあつた。
     
     
    イメージ 1
     
    平安北道(ピョンアンプクト)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)北西部に位置する行政区
    DPRK2006 PyonganBuk.png
     
     東は慈江道、南は平安南道に接する。西は海に面し、北は鴨緑江を隔てて中華人民共和国(中国)と向かい合う。海沿いには平野が広がり、北東部には山がそびえたつ。
     ダムが多く、鴨緑江本流にある水豊ダムは北朝鮮の電力生産の中心。亀城市龍川郡では機械工業が盛ん。核開発関連疑惑の場所も多く、寧辺郡なども同道に属する。
     
     
     
    定州市(チョンジュし)は、朝鮮民主主義人民共和国平安北道に属する市。
     
     
    DPRK Pyongbuk-Jongju.PNG
    平安北道の南部、黄海西朝鮮湾に面し、郭山平野の中心に位置する。西に郭山郡、北に亀城市、北東に泰川郡、東に雲田郡と隣接する。
     
     

                         昭和16年頃の定州市内図
     
     
     
     
     
     
     
    「この寒さの中に、よくいらつしやいましたね」
    「冬のダム、そこには凛烈(りんれつ)なる示唆があるのではないかと思ひまして-」
    僕は厳粛に来意を告げた。
     山深く入り来つて遥かに思ふ南溟(なんめい)の天地、さうした会話の瞬間にもラバウルには執拗極まる散の反攻が繰返へされてゐるのであらう。またブーゲンビル島沖の海域、マキンタラワ両島の海域、いや南溟ばかりではない、大陸の奥地でも我が皇軍は必死の敢闘を続けてゐるのだと思ふとき、粛然たらざるを得ないのであつた。

     思へば支那事変からこゝに幾星霜であらう。支那事変5年、それに大東亜戦争に展開して茲に3年、あしかけ8年といつてよからうが、日本はどこにそんな戦闘力を持つてゐたのであらう。敵米は、いや敵米のみではない。世界の殆どの国々は大東亜戦勃発の12月8日以前までは、日本は支那事変5箇年に疲れ果ててゐる。
    米国にどんなに脅喝されても日本は対米戦争は起し得ないといふのが世界の通念であつたのだ。その日本がこの戦果の拡大を敢へて成し、今もその目覚ましい「亜細亜の亜細亜再建設の大業」に邁進してゐるのである。さうして、その歴史あつて未だかつてない大業恢弘の中に、これはまたどうであらう「世紀の偉業」水豊ダムの建設を着手し、今まさにその全完成を見ようとしてゐるのだ。
    日本は外にかくまで大いなる戦ひを戦ひ、内にこの大いなる建設の勝利を確把してゐるのだ。世界が日本の力量測り知れずと驚歎する処に、この「水豊ダム建設」といふ実績がその一半を荷なつてゐることを見逃してはならないのである。(つづく


    三根謙一「水豊ダム素描」『朝鮮』1944(昭和19)年1月号、48-49頁。
    延長水源の標高平均流量流域面積水源河口・合流先
    流路
    790 km
    2,300 m
    1,040 /s
    31,739 km²
    白頭山(中国・北朝鮮国境)
    黄海西朝鮮湾


    「水豊ダム素描」(その2)はこちら
     



     
     有史以来人類が成した最大の建造物でありとされてゐるエヂプトのピラミツドより遥かに2割方大きく、しかもそのビラミツドは10箇年の歳月と1億の人力とを要してゐるがその昔のことはともかく、敵米が世界に誇るグランドクレーにしても、ボルダーにしてもそのダムの完成までには8年10年を要し、ソ聯が鳴物入りで宣伝したドニエプルのダムにしても5箇年計画でゆかず10年の年月を費してゐるのだ。
     それを我が「水豊ダム」は僅かに4箇年にしてその第一完成を見せ、世界一の純国産の発電機は昭和16年9月、大東亜戦争勃発以前に早やいともスムースな快調をもつて発電を開始したのである

     暘流8百粁(キロメートル)、人は古より「悠久千古の流」と嘆称した歴史の河「鴨緑江(おうりょくこう)」に、セメント80万噸(トン)を噛ませたのがこの「水豊ダム」である。それには2億5千万円の巨費と延人員4千万にのぼる建設戦士の辛苦敢闘が打ち込まれてゐるわけである。

     アジア大陸から突出した朝鮮半島、その半島の根元に相当する地域に二つの大河が分流してゐるのが豆満江(とまんこう)と鴨緑江である。その一つの鴨緑江こそ「悠久千古の流」として九州全土より広大だといふ6万平方粁流域、それに大陸的降雨量曲線の跛行(はこう)の特異性をもつこの長流をガバと通せんぼしたのが「水豊ダム」の建設である。
     もともと朝鮮総督府の第二次発電水力調査によつて、鴨緑江が相当の発電水力量を包蔵することはほゞ確められてゐたのであるが、政治的にはこれが国境河川だといふ処に種々の難事があつたのである。それが、満洲国建国といふ東亜新生の黎明(れいめい)に一大飛躍をとつて、こゝに鴨緑江が「悠久の流れ」といふ歴史的様相から現実の若人としての逞(たくま)しき活躍に一転する契機を把み得たのである。

     かくてこの鴨緑江を長さ574粁の湖と、高さ550米の人造滝を7つのダムによつて作り、流れる鴨緑江を完全に流れざる人造湖の連鎖と化し、そこに得た発電の全力量を鮮満綜合産業地帯に注ぎこんで、巨量の近代産業の血液たらしむべき電源完成が意図されて、昭和12年8月朝鮮総督府と満洲国政府との間に、それが正式調印をみたわけである。

          ×

     水豊ダムは、計画された7つのダムの中で一番大きいのである。そのポケツトである人造湖が最大である。その最大のものに向つて失づ体当りしようといふのが出願者野口遵(のぐち・したがう)氏の闘魂であつた。実はちよつと溯(さかのぼ)つた昭和12年5月のこと、こゝの地質調査が開始されたときのことであるが、この地には僅かに朝鮮農家が七軒といふ、川に添つた淋しさ、それに満洲側に跳梁(ちょうりょう)する匪賊(ひぞく)が河を渡つて襲撃して来るといふ凄さ。その中に挺身したのである。
     
     
     
     
     さうして6月には野口遵氏、久保田豊氏、間組(はざまぐみ)西松組の代表といつた処が現地観察に出かけたのである。時あたかも、大水の直後のことで、この日本最大の大河は満々たる濁流四、五千噸の流水量である。「この水がどうなりませう。これだけの流水量の河か堰止めるなど全く夢見たような話ですよ。」と驚く。一行の中の調査先発隊の一員であつた佐藤時彦氏はそれに答へていふ。「私はこの河の冬を知つてゐます。こんな河と取組むには、自然にさからつてはいけない。
     冬は百噸位の流れであるから、その自然の力の衰へた冬やればきつと征服出来ると思ふ。」この会話をじつと聞いてゐた野口氏は、突如、「やる!久保田君やらう」 剛毅岩をも砕く野口氏の闘魂は濁流滔々(とうとう)の大河に向つて決然言ひ放れたのである。

     9月に工事設計は完成、10月にはいよいよ間組、西松組はこの大工事建設地に進発した。現地に乗込んで見れば国境はもうすつかり冬枯れの山々、粛条たる風の声、ぐつと南にまはつた冬の太陽の色にも一つの悲壮があつた。
     さうして対岸の満洲地域には、天然痘、腸チフス、冬でありながら赤痢までが猖獗(しょうけつ)して、日毎死体は水量減じた冬の河を流れてゆき、鳥がそれに群つてゐるといふ有様。その中に間組は朝鮮側、西松組は満洲側から仕事に取りかゝつたのである。

     かくて11月には河の閉切り準備に着手したが、名にし負ふ大河、目のあたりにそれをみては、さてこの河が一体閉切れるものであらうかと再考されるのであつた。しかし男子一たぴ決したること、当つて砕けるより他ない。一同は河と心中する決心で起ち上がつたのである。

     そのとき思ひ出されたのは、かつて西松組が信濃川でやつたことのある河中に三角錐形の木枠を立てる方法であつだ。その木枠を立てゝ、それに石を打込み、内側に木柵を二重に並べ、これに砂や粘土をつめて閉切り、そのまた内側にコンクリートグロツクを作るといふのである。
     零下30度、汀上では40度といふ寒波の中でこの作業は開始された。寒さは人のからだを氷のやうに凝固する。用材のすべては凍結する、コンクリートの砂利も砂も水も凍てついてまゝにならぬ。それを一々温めなくてはならない。うそのやうな話だが、冬の河の力――自然力が低下してゐるうちに出来るだけ工事を進めておかなくでは大変なことになるのである。


          ×

     出征者を敢然と送りながら、一方では本格的輸送路を一日も早く確立しなくてはならないと、京義線定州駅からの80粁の平北鉄道の敷設工事が進められて行った。この鉄道は、やかて60万噸のシヤフトを運び込まなくてはならない鉄道なので、場当りの工事ではいけない。
     世界一の発電機の輸送としての堅実性が要請されてゐるのだ。しかしこの80粁は、山また山、山を貫いては山に喰い込む山間鉄道工事である。そこにも建設の辛苦は、建設の人々を悩ますべぐ冷然と存在してゐたのである。だか如何に自然の抵抗が冷然と存在しようと、入間の決意と行動はそれらを蹴散らしてゆく。この鉄道工事は昭和14年4月、僅かに1年3箇月といふ短期間で開通をみたのである。(つづく


    三根謙一「水豊ダム素描」『朝鮮』1944(昭和19)年1月号、49-52頁。
     
     
    野口遵
     野口 遵(のぐち したがう、1873年7月26日 - 1944年1月15日)は、日本実業家。日本窒素肥料(現・チッソ)を中核とする日窒コンツェルンを一代で築いた。「電気化学工業の」や「朝鮮半島の事業王」などと称された。チッソの他にも、旭化成積水化学工業積水ハウス信越化学工業の実質的な創業者でもある。
     朝鮮半島進出後の野口遵は政商であった。朝鮮総督府の手厚い庇護の下、鴨緑江水系に赴戦江発電所など大規模な水力発電所をいくつも建設し、咸鏡南道興南(現・咸興市の一部)に巨大なコンビナートを造成した。さらに、日本軍の進出とともに満州海南島にまで進出した。森矗昶鮎川義介などと共に当時、「財界新人三羽烏」として並び称されていた。

     
     

    沿革

    西暦 月 概要
    1874 創業
    1937 9 株式会社西松組を設立
    1948 7 社名を西松建設株式会社と改称
     

    転載元: ミナマタ 水・土壌汚染・防災研究会(廃棄物情報募集)転載歓迎


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    水豊ダム施工体制の整備

     鴨緑江開発の具体的な計画は、37年1月総督府と満州国問に設置された共同技術委員会で検
    討された。特に、水豊貯水池の締め切り、水豊ダムエ事の実施設計などを協議した。ダムエ
    事に関しては、38年8月に技術委員会が設立された後、その決議事項がそのまま承認された。

     満州国側の委貝長は、土木局第二工務処長原口忠次郎だった。共同技術委員会の席上、原口
    は二つのことを提唱した。第一に水豊ダムのブロック施工に関し、鴨緑江水電は早期発電の
    ため、まず水圧に耐える最小限度の断面で階段状に築き上げ、その後発電しつつ・この断面に
    コンクリートを上乗せする工法を提案した。しかし、原口はダムのストレスが一体に働かな
    いとして反対した。第二には、鴨緑江本流に7ヶ所のダムを建設すると、人工洪水を誘発する
    おそれがあるので、ダム相互問の放水量と放水時商との関連性を充分研究することを提案し
    た。
     

    新潟国際情報大学情報文化学部紀要
     37年8月水豊ダムエ事を担当する会社として、朝鮮鴨緑江水力電気株式会社・満州鴨緑江水
    力電気株式会社(社長・初代野口遵、2代久保田豊)が設立された。(以下、双方を総称して
    「鴨緑江水電」と略す)。両社の資本は各々5000万円とし、合計1億円である。資本金の出資は、
    満州国、東洋拓殖株式会社、朝鮮水電、朝鮮送電の4社(者)である。社長には野口、常務取
    締役には久保田、渕吾(満州国総理)が就任した。両社は別法人となっているものの、実際
    には役員・従業員などは共通で、野口遵らが双方の社長・理事を勤めたように一つの会社で
    あった。

     水豊発電所建設は鴨緑江流域に与える影響が大きいため、37年5月総督府は政務総監を委員
    長とし、各局長などを委員とする「朝鮮総督府鴨緑江水力発電開発委員会」(以下、「開発委
    員会」とする)(大野緑一郎委員長)を設置した。また、技術的な指導を受けるため日本で最
    高の技術者を集めて、38年8月「鴨緑江堰堤技術委員会」を設置した。初代委員長は元内務技
    監中川吉蔵(世界堰堤会議日本部会長)が就任し、後に元内務技監谷口三郎が第2代委貝長と
    なった。(以下、「技術委員会」とする)技術委員会は3回の会議を開き、水豊ダム建設計画の
    詳細について検討した。満州国からは、直木倫太郎(交通部)、原口忠次郎(同)、本間徳雄
    (水力交通部)、高野宗久(産業部)が臨席した。

     巨大な工事受注を目指して、満州土木建築業協会理事長であり、榊谷組組長の榊谷仙次郎
    は総督府や野口遵に対し、「鴨緑江水力工事は出資、満州、朝鮮半々なるをもって、工事は鮮
    満両国の適当の組に指名に相成る様」働きかけた。しかし、野口は「白分の方には指定請負
    人、間、西松、松本の三組ある。之で充分だと思うから、鴨緑江工事には此の三組にやって
    貰う」㈱と拒絶した。最終的に、日本窒素の工事を一貫して受注してきた、問組、西松組、
    松本組が特命で受注した。工事は水豊ダムを二分し、朝鮮側は問組、満州側は西松組が担当
    した。ダム建設以外の付帯工事は、主に満州側(流筏設備、鴨北鉄道)が西松組、朝鮮側
    (水豊発電所、平北鉄遣)を間組が担当した。また道路工事には松本組、さらには40年に間組
    から独立した一ノ宮近蔵がたてた一ノ宮組も参加した。

     満州国側を担当した西松組(林米七社長)は14年の創業以来、朝鮮窒素が朝鮮内で進めた
    電源開発(赴戦江、長津江、虚川江)を間組とともに、一手に引受けていた。西松組は37年9
    月、鴨緑江堰堤工事事務所(満州国安東省)を置いた。所長は初代小橋朝雄、二代小林光鎮
    である。その後、工事の拡大につれて、順次4つの出張所(新義州、九寧浦、長旬河口、拉古
    哨)を設置した。工事の最盛期には西松組の社員は80名を越え、全社員の一割を越えるなど、
    西松組にとって戦前最大の土木工事だった。臼φ配下として工事にあたったのは、庵下政吉
    (土工・鳶)、成澤吉彌(土工)、宮崎好鶴(土工)、宮崎新一(土工)、庵下栄之助(土工)、
    中園新吉(木工)、甲斐亀喜(運送)、新井晩来(運送)などである。㈱

    転載元: ミナマタ 水・土壌汚染・防災研究会(廃棄物情報募集)転載歓迎


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    鴨緑江開発計画の進展
     
     満州国政府は電源開発のため34年10月多くの電気会社を統合し、満州電業株式会社(資本
    金6000万円)(以下、満州電業と略す)を設立した。

     34年12月に南次郎が関東軍司令官兼駐満特命全権大使、関東長官に赴任した。南は赴任に
    先立ち「対満政策遂行に関する意見」を提出し、この申で、「日満経済会議一(委員)」の設置
    をうたった。35年7月に弓本と満州国は「日満経済共同委員会設置に関する協定」を結び、
    「日満経済共同委員会」を設置した。

     満州国内で実業部臨時産業調査局と国道局が長期的な水力調査に乗り出した。また、満鉄
    計画部も比較的早くから水カ電源の基礎調査に手をつけていたが、この時期に一層強化した。
    同じく、満州電業も社内に企画局を設けて、電源調査と開発計画の立案を行っていた。

     中でも特異だったのは、実業部臨時産業調査局の技師安倍孝良だった。安倍は水力電源調
    査班の主任者として第二松花江、太子河、遼河、鴨緑江などの水源地調査を行なった。安倍
    は上司である実業部鉱工司長椎名悦三郎、さらには産業部次長岸信介から強い信頼を得てい
    た。また、関東軍司令官南次郎、参謀長板垣征四郎も無条件にこれを受け入れたという。安
    倍は満州国内の電源開発を託す人物は朝鮮窒素の野口遵しかいないと考え、ごれを機会ある
    ごとに満州国要人に進言していたという。

     35年11月、満州国と総督府は、鴨緑江共同開発をめぐる第1回目の交渉を密かに開始した。
    鴨緑江開発に関心をもった満州国は36年3月と6月、本格的な鴨緑江の水力調査を行一なった。
    実業部、満鉄、満州電業の三者合同により、鴨緑江本流と支流潭江を詳細に調査した。

     満州国では36年9月の湯簡子会議で関東軍、満鉄経済調査会、日満財政経済研究会の経済計
    画案が検討された。重工業化を進めることを目標に、陸軍省軍務課は36年12月、「満州産業開
    発5ヶ年計画取扱要綱」を決定した。この中では、鉄鋼・石炭とならび、電力業と電力多消費
    産業が重要な位置を占めていた。当初計画は、3φ年末の生産能力として、鉄鋼、鉄鉱石、石
    炭、液化燃料、アルミニュウム、マグネシュウムなどの目標値を定め、ごの牟めに電力業も
    400万KWという巨大な電力が必要となった。5ヶ年計画は満州国における電力産業のあり方に
    大きな変化を引き起こし、水力発電の開発の契機となった。

     満州国内の水力発電所工事を推進するため、満州国は37年4月国務院に水力電気建設局(初
    代局長直木倫太郎、2代本間徳雄)を設置した。水力電気建設局は「河川総合開発」の具体化
    に着手し、第二松花江、牡丹江、澤江の開発を進めた。最初の目標は、第二松花江における
    豊満ダム・豊満発電所の建設だった。豊満ダムは水力電気建設局の直営によって、1937年11
    月から工事が始まった。豊満ダムは重力式コンクリートダムで、高さ91m、長さ1110m、ダム
    堤体積220万㎡、豊満発電所は70万KWである。

     満州国は急遼大規模な電源開発の必要に迫られ、鴨緑江の電源開発に強い関心を示した。
     安倍の提言を受けて、関東軍、実業部で検討した結果、その実現を朝鮮の野口遵に託すこと
    になったと思われる。36年「夏頃」、関東軍から朝鮮軍を通じて、朝鮮窒素の野口遵に対し松
    花江水力開発のために長津江水電の久保田豊常務を満州に送るようにいってきた。
     野口は「これは鴨緑江開発の下相談にも好機会である」と考え、久保田を新京へおくった。久保田は
    事前に宇垣一成総督にも鴨緑江開発計画を説明していた。久保田は関東軍の板垣参謀長や満
    州国政府要人と会って、松花江以外にも鴨緑江開発の説明をした。この後、野口が直接新京
    へ行き、満州国側と話をつけたという。

     もともと朝鮮側でも朝鮮窒素の野口を中心に、新たな水力開発として鴨緑江に関心を向け
    ていた。朝鮮窒素は朝鮮内の水力開発のために26年朝鮮水電を設立し、赴戦江開発を行なっ
    た。さらに33年に長津江水電を設立し、長津江開発をおこなった。野口、久保田が次ぎに目
    を向けたのが鴨緑江だった。34年2月、長津江水電の久保田は朝鮮軍司令官小磯国昭を訪問し、
    鴨緑江開発を依頼した。

     宇垣総督は総督府と満州国による鴨緑江共同開発の第1回交渉の直前である35年10月、次ぎ
    のように述べている。「朝鮮は実に今は時処を得て居る。(中略)立場は大陸の桟橋であり日
    満問の鑓であり、日満不可分関係を基準としたる範囲に於ては其の心臓部に相当して居る。

     実に天与の処を得て屠る」。㈲朝鮮の電力事業と工業化政策を進めていた宇垣総督にとって、
    鴨緑江開発は視野に入っていたと思われる。
     
     

    鴨緑江

     
    鴨緑江延長水源の標高平均流量流域面積水源河口・合流先流路流域
    流路
    790 km
    2,300 m
    1,040 /s
    31,739 km²
    白頭山(中国・北朝鮮国境)
    黄海西朝鮮湾
    中華人民共和国の旗中国朝鮮民主主義人民共和国の旗北朝鮮
    中華人民共和国の旗中国朝鮮民主主義人民共和国の旗北朝鮮
    テンプレートを表示
    鴨緑江中国語繁体字簡体字朝鮮語チョソングル満州語満州語
    鴨江
    鸭绿江
    [表示]発音記号官話- 漢語拼音- ウェード式
    압록강
    漢字 鴨江
    [表示]発音記号- MR式- 2000年式
    Yalu ula
    (メレンドルフ)
    鴨緑江 2007年10月20日撮影
    上流、長白朝鮮族自治県から見た南岸(恵山)。
    建設中の水豊ダム(1942年)
     
     鴨緑江(おうりょくこう、北京語:Yālù Jiāng(ヤールージャン)、朝鮮語압록강(アムノックカン))は、中華人民共和国(中国)東北部と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との国境となっているである。白頭山(中国名:長白山)に源を発し黄海に注ぐ。水の色がの頭の色に似ていると言われたことからこの名前がある。
     
    地理
     北岸は中国吉林省遼寧省となり、南岸は北朝鮮慈江道両江道平安北道である。川沿いの主な町としては中国側に臨江集安丹東があり、北朝鮮側に慈城満浦楚山新義州がある。
     主な支流は赴戦江、長津江、虚川江で、いずれも北朝鮮側の蓋馬高原から北流して鴨緑江に合流しており、日本統治時代に大型ダムが建設されている。中国側からの支流には璦河などがある。
     鴨緑江に架けられているの中では、下流の新義州と丹東を結ぶ中朝友誼橋が最もよく知られている。
     流域では林業が盛んで、かつては上流部で伐採された木材をにして流していた。1930年代後半から1940年代初頭にかけて、日本によって中流域に竣工当時アジア最大級の水豊ダムが建設され、水力発電が行われるようになった。ここで生産される電力は、現在でも北朝鮮の重要なエネルギー源となっている。

    歴史

     
     古くより朝鮮半島中国大陸満洲の接点として重要な河川であった。
     三国時代には中流域(現・集安市)に高句麗が丸都城を置いた。高麗王朝末期に朝鮮王朝太祖の李成桂(イ・ソンゲ)が政府に反旗を翻したのは鴨緑江の中州威化島だった。朝鮮王朝は鴨緑江をその領域の北界とした。
     日露戦争時には日本軍ロシア軍が激戦を繰り広げた(鴨緑江会戦)。また、朝鮮戦争時には北朝鮮軍を支援する中国軍が鴨緑江を越え、国連軍が両国を結ぶ鴨緑江沿いの要衝に爆撃を行った。
     しばしば下流域では氾濫が生じ、水害を発生させる河川である。2010年8月19日-8月21日には上流域で集中豪雨が発生。北朝鮮側の威化島が水没したほか、中国側でも丹東市を中心に5万人以上が避難する事態となった。

    支流

    鴨緑江上の諸島

    鴨緑江には多くの中州川中島)があり、ほぼ北朝鮮の領土になっている。上流から、
    などで、このうち威化島と黄金坪では中国と北朝鮮の共同工業区の建設が始まっている。

    転載元: ミナマタ 水・土壌汚染・防災研究会(廃棄物情報募集)転載歓迎


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    ■開発のダムや工場など8兆円規模
      ■現存も経済難で“食いつぶし”

      【読者から】戦前、朝鮮半島の工業化や土木事業に尽力した日本人のことが「一筆多論」(七月二十
     五日付)に書かれていました。日本によって作られたダムや重工業の工場などは現在の北朝鮮の地域に
     多く、現在も稼働している施設が多いと聞きます。このように、北朝鮮に日本が残した「資産」は、い
     ったいどれくらいあり、現在はどうなっているのでしょうか。
     
     
      戦前の日本が朝鮮半島に残した資産は昭和二十年八月十五日現在、GHQ(連合国軍総司令部)の試算で八百九十一億二千万円(当時のレートは一ドル=十五円)に上ります。このうち、北朝鮮に残した資産は四百六十二億二千万円で、現在価格に換算すると八兆円を超えます。
    日本は朝鮮北部を主に工業地帯として開発し、今の韓国にあたる朝鮮南部を農業地帯として開発しました。朝鮮北部では特に、鴨緑江水系の電源開発に力を注ぎました。
    この計画を最初に思いついたのは、電気技師の森田一雄氏と土木技師の久保田豊氏です。大正十三(一九二四)年、両氏は朝鮮半島の五万分の一の地図を見ながら、鴨緑江に合流する赴戦江や長津江の水を逆方向の日本海側に落とせば、巨大な電力が得られるのではないか、と考えました。朝鮮半島の東側の急勾配(こうばい)に着目した発想でした。
     この計画を大手電気化学工業の日本窒素肥料社長、野口遵氏に持ち込んだところ、野口氏も賛同し、その資金援助によって朝鮮北部の電源開発がスタートしました。
     終戦までに、赴戦江、長津江、虚川江、華川、水豊などの発電所が完成し、禿魯江、江界、西頭水、雲峰、義州などの発電所は工事中のまま、終戦を迎えました。
     
     
     
     
     
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     また、日本海側の興南という地に、この電力を利用した東洋一の化学工場、日本窒素肥料興南工場がつくられ、硫安、硫燐安などの化学肥料が大量に生産されました。興南市は工業都市として栄えました。
     現在、日本と北朝鮮とは国交がなく、これらの水力発電所や工場が戦後六十年を経て、どうなっているかについて、外務省も正確な実態を把握できていません。
     北朝鮮への日本側経済界の窓口である東アジア貿易研究会の調査によると、日本が完成させた水豊、赴戦江、長津江、虚川江の水力発電所は今も稼働しています。
     鴨緑江の水豊ダムは今も最大の発電容量(七〇万キロワット)を持ち、電力を中国と折半することになっています。
     しかし、ダムの修理費や維持管理費を中国が負担し、それを外貨不足の北は電力で支払わざるを得ないため、実際に北へ支給される電力は半分を大幅に下回っているようです。
     また、水豊ダムを含めて送電設備の劣化による損失が大きく、電力が地方に効率よく送られていません。このため、しばしば停電が起きます。
     東洋一の化学工場だった日本窒素肥料興南工場は、朝鮮戦争(一九五〇-五三年)で爆撃を受けましたが、その後、修復され、現在も「興南肥料連合企業所」として北朝鮮の肥料のほとんどをここで生産しているといわれています。
     しかし、設備の老朽化や電力不足により、同企業所を含む北朝鮮全体の年間肥料生産量は五〇万トンで、必要量(一五五万トン)の三分の一にも足りません。このため、肥料も韓国からの援助に頼らざるを得ません。北の慢性的な食糧難も、こうした電力や肥料の不足が影響しているようです。
     このほか、日本統治時代に敷かれた京義線などの鉄道は今も動いていますが、時刻通りに運転されていません。
     戦前の日本は当時の最高水準の技術を朝鮮半島に残しましたが、北朝鮮はその遺産を生かせず、ほとんど食いつぶしているといえます。(石川水穂)
                             :産経新聞[2005年09月04日 東京朝刊])
     
     
     
     
     
     
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    転載元: ミナマタ 水・土壌汚染・防災研究会(廃棄物情報募集)転載歓迎


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    朝・中鴨緑江水力発電会社 プリント メール
    2006/03/15 Wednesday 23:16:02 JST
     北朝鮮と中国が両国の国境を接している鴨緑江の水資源を共同で開発・利用するために設立された会社。
     1955年4月に創設され、会社運営のために毎年、交代で平壌または北京にて理事会を開催する。
     理事会では△両国が共同で建設・運営している発電所の運営問題および新規の発電所建設問題△前年度事業の決算と当該年度事業決定などに関する諸般の問題を協議する。
     朝中鴨緑江水力発電会社が運営する発電所には、水豊発電所(70万kW)・雲峰発電所(40万kW)・太平湾発電所(19万kW)・渭原発電所(39万kW)等があり、これらの発電所で生産される電力は北朝鮮と中国が50%ずつ分けて使っている。
     そして両国は現在、吉林省の臨江と平安北道義州にそれぞれ30万kW・10万kW規模の水力発電所2つの建設を推進している。(1988.10.29北京放送報道)
     北朝鮮と中国は1995年12月1日、北京で「朝・中水力発電理事会」第48次定期会議を開催し、決定書を採択したことを北朝鮮の平壌放送が報道している。
     
     
     
     
    新聞記事文庫 電気工業(20-094)
    満州日日新聞 1937.9.1(昭和12)

    満洲鴨緑江水力発電会社定款


    第一章 総則

    第一条 本会社は満洲鴨緑江水力発電株式会社と称し康徳四年勅令第二五〇号により設立す
    第二条 本会社は朝鮮鴨緑江水力発電株式会社と共同して鴨緑江および図們江各本流の水力を利用する発電事業の開発ならびに経営を目的とす
    本会社は産業部大臣の認可を受け朝鮮鴨緑江水力発電株式会社と共同して前項の事業に附帯する業務を営むことを得
    第三条 本会社は朝鮮鴨緑江水力発電株式会社と発電事業の共同経営に関する約定を締結しこれにより事業の共同経営を行うものとす
    第四条 本会社の資本額は五千万円とす
    第五条 本会社は本店を新京に置き京城その他必要なる地に支店又は営業所を置くことを得
    第六条 本会社の存立期間は設立の日より三十五年とす、但し産業部大臣の認可を受けこれを延長することを得
    第七条 本会社の公告は政府公報及び朝鮮総督府官報に掲載してこれを為す

    第二章 株式

    第八条 略
    第九条 本会社の株主はその所有する株式と同数の朝鮮鴨緑江水力発電株式会社の株式を所有することを要す
    第十条 略
    第十一条 略
    第十二条 株式の第一回払込額は一株につき十二円五角とし第二回以後の払込時期及び金額は理事会の決議をもってこれを定め少なくとも三十日前に各株主にこれが通知を為すべし
    第十三条より第十八条まで略

    第三章 株主総会

    第十九条 株主総会は定時及び臨時の二種とし、定時株主総会は毎年三月及び九月、臨時総会は必要に応じ理事長これを招集す総会の場所は本店の所在地とす但し必要あるときはその他の地において開くことを得
    第二十条より第二十三条まで略

    第四章 役員

    第二十四条 本会社に左の役員を置く
    理事長 一人
    理事 五人以内
    監事 四人以内
    (以下略)
     
     
     
    朝鮮水力電気(朝鮮水電)
     朝鮮水力電気の拾株券。同時期に設立された朝鮮窒素肥料株式会社(朝鮮窒素)の工場に電力を供給することを目的とし、日本窒素による全額出資という かたちで1926年に設立されました。
     現在の北朝鮮に位置する咸鏡南道赴戦江の水利を利用した発電事業を行なっていました。非常に大規模な事業で、巨大な発電量を誇っていたようです。1929年に第一期工事が完成して、送電が開始されました。
    その後、1930年に朝鮮窒素に合併される形で、歴史から姿を消しています。
     
     
     
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    鴨緑江発電所用水車を製造すべき電業社工場の増築用鉄材取得に関する件
    (Acquiring steel for extending factory of electric workshop and construct hydraulic turbine for Yalu River Power Plant)
    資料作成年月日: 1938/03/19 / 作成者: 陸軍次官 梅津美治郎(Umezu Yoshijiro, Vice-Minister of Army)
    内 容: 陸軍省受領 密受第四一八号 朝鮮密第一九○号
     鴨緑江発電所用水車ヲ製造スヘキ電業社工場ノ増築用鉄材取得ニ関スル件 目下建設ヲ急キツツアル鴨緑江水力発電株式会社水豊発電所ニ使用スヘキ水車ノ製作ヲ東京電業社ニ注文シタルトコロ東京電業社工場狭隘ノ為メ工場ヲ増設スルノ必要ニ迫ラレタルカ該工場用鉄材ハ時局柄入手困難ナル旨申出アリタルニ付別紙ノ通リ証明シ置ケリ 右ハ朝鮮産業開発上最モ必要ナル発電施設ナルカ其製作品ハ日本電気工業界未曽有ノ大規模ナル為之カ製作工場ヲモ此ノ際新設セサルヘカラサル実情ニ鑑ミラレ右鉄材ノ取得ニ関シ関係各方面ニ対シ適宜御手配相煩度
    鴨水願第五一号 昭和十三年三月十六日
     
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    鴨緑江水力電気株式会社のガソリン機関車輸入の件
    (Importing gasoline-powered locomotive from Yalu River Hydroelectric Company)
    資料作成年月日: 1938/04/07 / 作成者: 陸軍次官 梅津美治郎(Umezu Yoshijiro, Vice-Minister of Army)
    内 容: 陸軍省受領 密受第五三二号 朝鮮密第二三五号 鴨緑江水力電気株式会社ノ「ガソリン」機関車輸入ノ件 鴨緑江水力電気株式会社ニ於テハ水豊発電所急速建設中ニシテ建設用材料運搬機関車ヲ必要トスル所運搬機関車並ニ代用品ハ内地ニ在庫品無キ為輸入ヲ必要トスル旨鴨緑江水力電気株式会社ヨリ申出タルニ付別紙ノ通証明シ置ケリ 右ハ鮮満産業開発ノ為電力供給施設トシテ急速建設ヲ必要トスルモノナルニ就テハ中央ニ於テモ関係各方面ニ対シ適宜御手配相煩
    鴨水願第六六号
    昭和十三年四月六日 朝鮮鴨緑江水力発電株式会社 取締役社長 野口遼 満 鴨緑江水力発電株式会社 理事長 野口遵 朝鮮軍司令官 陸軍大将 小磯国昭
     
     
     
     
     
     
     
    1949年韓半島には すべての発電所が北朝鮮にあった. 韓半島最大鴨緑江水力発電所
    韓半島のすべての重工業は北朝鮮にあり電気さえ北朝鮮の供給で維持した韓国なのに
    1949年北朝鮮の南韓に対する電気供給を全面中断することで韓国は電気ない世の中に
    おびただしい試練に突入し始める. 北朝鮮の一方的電気,資源供給中断でインフレーション
    物価上昇率は 500%で最悪の経済難で触れれば倒れる韓国の事項だった.
     
     
     
     
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     朝鮮(現、北朝鮮)水豊発電所の当時世界最大容量(10万5千kW)の フランシス水車

    資料番号 : 901390200038
    所在等所在地製作(製造)年種類製作者(社)等調査機関団体特徴資料公開状況
    株式会社 東芝 京浜事業所
    神奈川県横浜市鶴見区
    1938~1944
    電業社原動機製造所(現 東芝水車部門の前身)
     
    1938(昭和13)年初頭、この大容量水車の引合いが朝鮮・満州鴨緑江水力発電株式会社から公表された。水豊ダムは堤長950m、高さ100m、貯水面積は琵琶湖の2分の1という巨大なものである。水車はフランシス水車7台で、落差82mで出力105,000kWという当時世界最大のものである。当時、世界最大容量機は米国ボルダーダム発電所の85,000kWであり、これを遥かに凌駕するものである。激しい国際競争の結果、同年3月に電業社(現 東芝)が全7台を受注した。 この水車製造により、電業社は世界の同業他社を瞠目させると共に、わが国の電機業界から初めて世界記録品を送り出したという意味で、わが国の電機工業史上不朽の記録を残した。
     これに対し1942年1月に朝日新聞社から朝日文化章を授与された。国交の無い北朝鮮にあるため詳細は不明であるが、実機は現在も同国の主要電源として稼動していると思われる。資料として、仕様書、設計図、文献、写真などが保存されている。
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    JNC 日本チッソの朝鮮への進出

    朝鮮窒素肥料 興南工場
     
     野口は水俣工場、延岡工場を拡張しながら、更に朝鮮でも大規模硫安製造業の建設を行った。1925年6月、朝鮮総督府から蓋馬高原鴨緑江支流の赴戦江の水利権を得て、20万kWの発電所を建設した。これにより1926年1月に朝鮮水電株式会社、翌1927年5月には、朝鮮窒素肥料株式会社が設立された。1933年5月には長津江、1937年1月には虚川江の電源開発に着手、合計12箇所の発電所で87万kWの電源を確保した。
     これら蓋馬高原に建設したダムによる大電力を利用して、ダム群の日本海側にあたる咸鏡南道咸興郡には興南、永安、本宮の3工場が建設された。これらの工場では主に合成アンモニアを原料にした硫安、硫燐安などの肥料が製造されたが、他にも油脂、石炭低温乾留、アルカリ、カーバイド、火薬、金属精錬など多角的な化学工業が展開された。
     興南地区には、朝鮮窒素肥料など10社を超える子会社、関連会社が設立され、面積は1980万m2、従業員は4万5千人、家族を含めた総人口は18万人に達していた。設備能力では水電解設備は世界第1位、硫安は年産能力50万tで世界第3位と、世界屈指の化学コンビナートに成長した。これらの事業の中心は水俣の本社工場とともに、朝鮮の興南地区に置かれた。

    終戦までの事業拡大

    水豊ダム
     
     更なる事業の拡大のため、豊富な水源を有する鴨緑江本流の電源開発に取り掛かり、満州国政府、朝鮮総督府との共通事業として、七つのダムによる165万kWの発電計画を策定した。1937年8月には水豊発電所の建設に着手したが、堰堤900m、高さ106m、貯水湖の広さ345km2と、霞ヶ浦の2倍、人造湖としては当時世界第2位の規模であった。水豊発電所の70万kW設備は1944年には殆ど完成していたが、第2期70万kWの設備は工事半ばにして敗戦を迎えた。
     鴨緑江の電源開発と平行して、朝鮮の灰岩工場で石炭直接液化によるガソリンエタノール、興南地区の竜興工場で航空機燃料のイソオクタン水豊ダム下流の青水工場でカーバイド、アセチレンブラック、南山工場で合成ゴム、吉林では人造石油の製造にも取り組みが続いた。これらの他にも、中国の華北台湾海南島スマトラジャワマレー半島、シンガポールなどでも製造・電源開発・鉱石採掘などの事業を試みたが、いずれも敗戦により事業半ばに終わった。主要拠点である朝鮮の資産を喪失し、GHQ財閥解体令を待たずに日窒コンツェルンは実質的に瓦解した。

    日窒コンツェルンの特徴

    野口が日窒コンツェルンを成長させた手法にはいくつかの特徴があった。
     
     一つ目は、当時の先進技術を活用したことである。 当時最新の化学工業技術を特許と共にヨーロッパから導入した。当時の野口は希少な知識を有する技術者であった(当時東京帝国大学電気工学科の卒業生は1~4人、野口の年次に初めて10人を越す在籍者となった)。また事業確立のためフランク・カローの特許を入手する際には、三井古河などの既存大財閥との競争になったが、シーメンスに勤めた人脈を最大限に活用できたことも大きかった。シーメンスとの友好関係はその後も変わらず、ドイツからの技術導入とシーメンスの日本での発電事業・電力応用設備市場拡大の相互依存関係を続けた。
     
     二つ目は、電気化学の工業化事業モデルを確立したことである。 電気化学では、ダム建設による水力発電により電力を確保し、大量に供給される電力を利用して電気化学工場で肥料火薬を製造する。電力が安いほど競争力が得られることから、大規模化のメリットを享受しやすい構造を有しており、朝鮮半島北部の豊富な水資源、特に鴨緑江に注目して朝鮮へ進出することで、装置産業としての効率を上げることができた。
     
     三つ目は、政商としての側面である。 窒素肥料は近代化の遅れた日本の農村ではあまり需要は伸びず、日露戦争の反動不況から経営危機に直面したが、第一次世界大戦の勃発により火薬の原料となる硫安チリ硝石の需要急増で大きな利益を得ることができた。また当時朝鮮総督宇垣一成や軍関係者は朝鮮半島の軍事工業基地化を目指しており、日窒には好意的であり、様々な融資を引き出すことができた。更に水豊ダム建設などの巨大プロジェクトにおいては、満州国政府、朝鮮総督府との国策的な共同事業として事業資金についても便宜が図られるなどした。

    沿革

    • 1906年(明治39年)1月12日 曾木電気
    • 1907年日本カーバイド商会設立 、 曾木発電所第一期工事完成(発電機1台800kW)
    • 1908年 アドルフ・フランクニコデム・カロー両名の石灰窒素製造に関する日本帝国における特許実施権を買収 、日本カーバイド商会と合併、社名を日本窒素肥料と改める
    • 1909年(明治42年)中橋徳五郎取締役会長、野口遵専務取締役、藤山常一常務取締役に就任。曾木発電所第二期工事完成1909年(明治42年)11月 フランク・カロー式石灰窒素製造法による肥料工場を水俣に建設、石灰窒素の製造研究着手
    • 1912年(明治45年) 常務取締役 藤山常一辞任
    • 1914年(大正3年) 鏡工場竣工、石灰窒素、硫安の製造開始
    • 1915年この頃第一次世界大戦の影響で、肥料価格暴騰
    • 1916年水俣工場の拡張、新工場の建設開始 、 内大臣川発電所竣工、鏡工場に送電開始
    • 1917年(大正6年)1 川内川発電所一部完成、水俣新工場への送電開始
    • 1921年(大正10年) カザレー式アンモニア合成法特許実施権購入の契約
    • 1923年(大正12年)1 延岡工場製造開始
    • 1926年(大正15年) 朝鮮水電(朝鮮咸鏡南道赴戦江の水利を利用した発電事業) 、信越窒素肥料設立(工場を直江津におき、九州鏡工場の肥料製造装置を移設)
    • 1927年(昭和2年) 水俣新工場(カザレー式)製造運転開始 、 朝鮮窒素肥料創立 、朝鮮窒素肥料と朝鮮水力電気を設立し、朝鮮の興南(現・北朝鮮咸鏡南道咸興市)を始め、朝鮮半島各地に大規模化学コンビナートやダム、水力発電所を建設する。
    • 1928年(昭和3年) 朝鮮窒素 西湖津工場を興南工場と改称。
    • 1929年日本ベンベルグ絹糸設立 、朝鮮窒素肥料 興南工場第1期工事完成 、赴戦江水電第1期工事完成
    • 1930年朝鮮窒素肥料が朝鮮水電を合併 、日本窒素火薬を設立
    • 1931年(昭和6年) 延岡アンモニア絹糸株式会社設立 、 昭和天皇水俣工場に行幸
    • 1933年(昭和8年) 旭ベンベルグ絹糸設立 、長津江水電設立
    • 1934年朝鮮総督府の電力統制計画に基づき、長津江水電の発電電力を平壌に送電する電気事業経営許可 、朝鮮送電設立 、日本マグネシウム金属
    • 1935年(昭和10年)朝鮮石炭工業設立 、大豆化学工業設立 、 日窒鉱業設立 、 朝鮮窒素火薬設立 、朝鮮石油設立 、昭和天皇が旭ベンベルグ絹糸延岡工場に行幸 、朝鮮ビルディング設立
    • 1936年(昭和11年) 日窒宝石設立 、 朝鮮窒素肥料 本宮カーバイド、石灰窒素工場の工事完成、一部運転開始 、 長津江水電第1,第2発電所発電開始
    • 1937年(昭和12年) 日窒証券設立
    • 1942年社長野口遵 勲一等瑞宝章
    • 1943年(昭和18年) 日窒火薬を合併し、社名を日窒化学工業に変更
    • 1944年代表取締役社長 野口遵死去 、 水豊ダム、水豊発電所が竣工
    • 1945年(昭和20年) 日窒航空工業(航空機用強化木製造)
     

    咸興市

    咸興市
    位置
    DPRK2006 Hamnam-Hamhung.PNG
    함흥시
    咸興市
    ハムフンシ
    かんこうし
    Hamhŭng-si
    咸興市(ハムフンし)は、朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道の道都。李氏朝鮮発祥の地である。平壌とともに冷麺の本場として有名で、盛岡冷麺の創始者である在日1世の青木輝人(朝鮮名ヤン・ヨンチョル:양용철)も咸興出身である。
    咸興市に属する沿海部の興南区域は、化学工業を中心とする工業都市・港湾都市である。
    人口は70万9730人(1993年)、87万4000人(2005年)。
     
    地理
    咸興市の衛星写真
     
     日本海に面する咸興平野に位置する。城川江が市内を貫通する。北の蓋馬高原への交通の要地であり、農産物の集散地となっている。咸興湾に面した興南には巨大ながある。

    歴史

     古代は高句麗の領域であり、ついで渤海国の領域となった。渤海の五京の一つ、南京南海府の比定地の一つである。
     渤海国滅亡後は、長らく女真族の領域となり、高麗モンゴル帝国との争奪の場となった。最終的には高麗の支配下に入り、1356年に咸州が置かれた。李氏朝鮮の建国者である李成桂は晩年にこの地に隠居したため、彼にまつわる遺跡も多い。李氏朝鮮時代、咸興は東北辺境部の中心地であった(咸鏡道の「咸」は咸興からとられている)。
    咸興の周囲はもともと農村だったが、日本統治時代の1920年代は蓋馬高原で電源開発が行われるとともに、咸興中心部の南約10kmの海岸にある興南に工業地帯が建設された。
     朝鮮戦争中、咸興・興南は国連軍艦砲射撃空爆により破壊されたが、後にソ連東ドイツなどの東側諸国の援助もあり復興し、発展した。
     咸興市は、1960年から1967年の間直轄市に昇格した事もある。

    年表

    • 2005年- 興南市がふたたび咸興市に編入され、興南区域となる。
     

    新興鉄道

     新興鉄道(しんこうてつどう)は、日本統治時代朝鮮半島に存在した鉄道会社である。
    ここでは、1945年7月当時に所有していた路線のみを記載する。なお、現在の内容については新興線長津線西湖線の項目を参照。

    路線

    1945年(昭和20年)時点

    関連項目

     

    朝鮮石油

    朝鮮石油株式会社(ちょうせんせきゆ)は、日本統治時代朝鮮半島に存在した石油会社である。本社の所在地は京城府(現・韓国ソウル)、製油所の所在地は現在の北朝鮮元山(ウォンサン)
     
    設立
     1934年昭和9年)7月1日に石油の民間保有や石油業の振興などを目的とした石油業法が施工された。統治下の朝鮮においても同様に施工され新会社設立の気運が高まった。1935年(昭和10年)6月25日に朝鮮窒素肥料社長野口遵日本石油社長橋本圭三郎が発起人となり、京城府に株式会社朝鮮石油(資本金1000万円,四分の一払込み)が設立された。
     株式20万株のうち17万株は発起人(朝鮮窒素肥料3万3千株・日本石油3万株)及び賛成人(東洋拓殖2万株・三井物産1万株・住友本社,浅野物産,日本鉱業ほか計15000万株)で受け持った。残り3万株は公募となったが応募は60倍以上となった。
    石油業法と相まって国策企業に近いものであるため、朝鮮内に置いては様々な点で優遇されることになる。

    製油所および販売、精製設備

     製油所は日本海側に面する咸鏡南道元山府浦下洞(現・江原道元山市場村洞)に建設され1936年(昭和11年)9月に完成した。輸入した外国原油を用いて揮発油、灯油軽油重油パラフィンなどを製造。
     朝鮮の石油市場は大正末期まで中国、満州などと同様に外国企業3社スタンダードシェルテキサコで独占されていたが、昭和初期より日本石油が市場の開拓をはじめ販売店および特約店を設けて外国企業に対抗していた。 日本石油は朝鮮石油設立後にこれら販売地盤を朝鮮石油に無償譲渡。朝鮮唯一の製油所で製造された商品は石油業法にて保護され外国企業製品にかわり朝鮮全土に普及した。
     
     
     

    転載元: アジア・太平洋貿易振興・環境保全・環境産業振興・歴史認識


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    知床:「マナー守ろう」 カメラマンの危険行為で緊急声明

    毎日新聞 2013年10月19日 00時21分(最終更新 10月19日 09時56分)
    ヒグマ目当てに、岩尾別川沿いの町道にびっしりと詰め掛けたカメラマンや観光客=環境省釧路自然環境事務所提供
    ヒグマ目当てに、岩尾別川沿いの町道にびっしりと詰め掛けたカメラマンや観光客=環境省釧路自然環境事務所提供
     世界自然遺産・北海道知床で、ヒグマの撮影を狙うカメラマンが危険な行為を繰り返しているとして、環境省や学識経験者などでつくる知床世界自然遺産地域科学委員会(大泰司紀之委員長)は18日、自重を求める緊急声明を出した。関係者は「このままではいつか人身事故が起きる」と警告している。
     知床財団によると、北海道斜里(しゃり)町の岩尾別川では、遡上(そじょう)するサケ、マスを捕食するヒグマが出没。それ目当ての観光客やカメラマンも殺到している。9月中旬には、サケをくわえて道路へ出て来たクマを至近距離で撮影しようとわずか数メートルの距離で取り囲んだり、望遠レンズ越しで距離感を失い転倒したりするケースがあったという。
     9月18日には、「クマ寄せ」とみられるサケの死骸も見つかった。声明では、かつてクマに餌付けして見せ物にしたことから、キャンパーが殺される事故が起きた米国の例を挙げ「至近距離での接近や取り囲みはヒグマを興奮させ、人身事故につながる」と指摘。「クマから離れて撮影すれば、危険を減らすことができる」と求めている。
     

    関連記事

     

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    鉄道工事の安全・環境標語

    営業線 変わる環境 変わらぬ基本 ルールを守って 触車事故ゼロ




    使ってますか安全帯、塞いでますか開口部、墜落防止の声出そう!

    はっきり合図 しっかり確認 あなたの動作で事故防止

    気配り、目配り、声をかけ、みんなで予防 公衆災害





    摘み取ろうその場で感じた危険の芽 皆で確認安全作業

    見たはず したはず 言ったはず 確認不足に潜む事故

    心の隙間と開口部 無くして防ごう 墜落災害

    立入らない 入らせないが合言葉 重機の死角は危険箇所

    全員で「もったいない」の気持ちから減らせて見せます廃棄物



    おかしいな?気づいたその場で報連相

    気を抜くな 慣れた作業に 落し穴 初心に帰って 安全作業

    声出して ゆび指して 目で見て確認 線路の安全

    事故をよぶ、うっかり、ぼんやり、近道行為

    地下埋は 手間を惜しまず 確認し 立会・試掘で 事故はなし

    近道、手抜き、手順無視 近づく災害、遠のく安全

    慣れと過信に 予期せぬ危険、事故の芽を摘む 安全確認

    目で認識、声出し確認、指差し確信、『気づく危険と築く安全』

    安全帯 つけてるだけでは 飾りもの  使ってはじめて 命綱

    開口部 見て見ぬふりが落とし穴 みんなでなくそう危険箇所

    慣れぬ作業は慎重に、慣れた作業は確実に

    見る目 気づく目 予知する目 みんなで摘み取れ危険な芽

    機械の動作にあらわれる あなたの技術と安全意識

    携帯するのは重機の資格、警戒するのは重機の死角

    職場から 出さない公害 地域の信頼

    見て確認 ゆとりをもって合図して ていねい誘導 防ぐ事故

     http://www.tekkenkyo.or.jp/etc/hiyougo18.html





    慣れた作業に予期せぬ危険 抜くな確認 省くな点検




    落ちないと 思う心が落とし穴 きっちり塞ごう開口部

    手抜き、近道、用途外 初心を忘れず 安全作業

    減らします 騒音 振動 廃棄物 現場も地域の一員です




    安全は基本動作と、指差確認、最後にしっかり跡確認

    見る目、気づく目、予知する目、みんなでなくそう危険な芽

    目配り 気配り 思いやり、事前に摘もう 危険の芽!

    重くない?遠くない?クレーンの限界超えてない?

    吸わせません 粉塵 排ガス アスベスト




    安心を運ぶ線路を最優先、毎日摘み取る危険の芽

    気づいたら すぐに伝える危険予知 あなたのヒヤリが防波堤

    声を出せ 声を掛け合え 声を聞け みんなで築く安全職場

    災害は慣れと油断と過信から 初心に戻って基本作業

    作業前 ことばで確認 見て確認 『昨日と違う 危険箇所』

    すぐ実践 その場のあなたが責任者 声出し指差し跡確認

    線路内 今日だけ今だけチョットだけ 慣れと油断が事故のもと

    やるな やらすな 見逃すな 「単独作業と限界支障」

    開口部 手摺りが無ければ落とし穴 皆で確認 安全設備

    聞いてよかった あなたの注意 やめてよかった 不安全作業!!

    再確認!!必ずあるぞ危険個所!!みんなで確認、現地KY

    はずした手摺りは すぐもどそう あなたの仲間も 通る場所

    「地切、玉掛け、人払い」クレーン作業の 合言葉

    誘導員 あなたの指示が 命綱 大きなジェスチャー はっきり誘導

    人に優しい歩行者通路、あなたの家族が通る道

    やったつもり 見たつもり 「つもり」積もれば 事故の元

    転載元: シナの恫喝に負けるな! 防災・環境・歴史・観光で平和と繁栄


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    大分市 日本一きれいなまちづくり

     平成25年8月4日(日)、大分市全域で第9回「市民いっせいごみ拾い」を実施しました。
     当日は、暑い中、多くの市民の方にご参加いただきました。
     収集したごみの量は可燃ごみが65.79トン、不燃ごみが6.77トン、合計で72.56トンでした。
     みなさま本当にお疲れ様でした。
    市民いっせいごみ拾い 写真1
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     「市民いっせいごみ拾い」は、平成17年に実施した「ギネスに挑戦・全市いっせいごみ拾い大作戦」以降、毎年続けている活動であり、今年で9回目となりますが、お陰をもちまして多くの自治会・学校・事業所等で自主的な清掃活動の取組みが広がっています。
     まだまだ暑い日が続きます。
    ごみ拾い等、清掃活動をされる際には、熱中症などにお気をつけください。
     
    市民いっせいごみ拾い写真3大分市ではこれからも市民協働のもと、「ポイ捨てをさせない」「清掃がいきとどいた」「花いっぱい」の「日本一きれいなまちづくり」を推進していきます。
    みなさまのご理解・ご協力をお願いします。
    「きれいなまちはきれいなこころから」
     ごみのポイ捨てはまちの美観を損ねるほか、自然環境が汚染される原因にもなり、私たちの健康や生活環境に悪影響を及ぼします。

     大分市では、「日本一きれいなまち」を目指して平成18年7月1日から「大分市ポイ捨て等の防止に関する条例」がスタートし、あわせてボランティアによるポイ捨て等防止パトロール団体登録制度を実施しています。
     この制度は、市内に住んでいる皆さんや事業者の皆さんと市が協働してポイ捨て等の防止のために各地域でパトロール活動を行い、清潔で美しいまちづくりを推進し、「日本一きれいなまち おおいた」の実現を目指すものです。
     現在、70団体(697名)の方々にご登録いただいています。 随時、団体登録を行っていますので、皆様のご協力をお願いします。
    ポイ捨て等防止パトロール団体
    日本一きれいなまちづくりシンボルキャラクター「クリリン」

    日本一きれいなまちづくりのシンボルキャラクター
    「クリリン」をご紹介します。

    クリリンは「日本一きれいなまちづくり」を進めていくためのシンボルキャラクターとして平成17年4月に生まれました。

    名前は、英語の「クリーン(clean)」と人と人の「輪」を合わせたもので、は
    「きれいなまちを大切にする気持ちをもっと広げたい」という私たち大分市民の願いが込められています。この名前は大分市在住の生野見仟子さんに名づけていただいもので、公募で集まった全173点の中から選ばれました。

    皆さん
    「クリリン」をよろしくお願いします。
    日本一きれいなまちづくり推進委員会では、「日本一きれいなまちづくり宣言」~私たち大分市民はポイ捨てしません~を行いました。

     幹線道路や人家の少ない道路沿いでは依然としてポイ捨てごみが後をたたず、熱心にごみ拾いをされる市民の皆さんの苦労もなかなか報われません。

     そこで、ポイ捨てをしない、まちを汚さないということが、大分市民の誇りであるという思いを込めて宣言を行い、広く市民の皆さんに知っていただくために、ステッカーを作成しました。

     
    啓発用ステッカー

     店舗や社用車、自家用車などに貼付してPRしていただき、ポイ捨ての抑制、ポイ捨て禁止の啓発へのご協力をお願いします。
     市民の皆さん一人ひとりの運動により、ポイ捨てのない日本一きれいなまちをめざしたいと考えています。
     
     ステッカーは市民協働推進課、各支所、各地区公民館にて無料配布しております。
     この運動にご賛同いただける多くの皆さんのご参加お待ちしております。
    2005年8月7日に実施しました、ギネスに挑戦「全市いっせいごみ拾い大作戦」での「一日のごみ拾い参加者数」が、ギネス記録に認定され、10月11日にギネス社より認定証が届きました。
    ギネス記録認定証

     (日本語訳)     証明書
    「2005年8月7日、日本国大分県大分市において、146,679人という最も多くのボランティアが、一日にひとつの地域でごみ拾いに取り組んだ」
    表紙
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    転載元: 明るく元気にほがらかに


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    上本町6丁目の植樹帯がゴミや居酒屋の残材で不法占拠されています。綺麗にしましょう!
     
     
     
     
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    街路樹の役割

     街路樹には、多くの役割があります。なかでも、以下の4つは大きな特徴といえるでしょう。
     また、街路樹は植物であることから「親しみ」、「潤い」、「生命感」、「やすらぎ」という特有の効果があります。
    街路樹はまちに自然と四季をつくります
    ・いきいきとした緑は野鳥や昆虫を呼んでまちに自然をつくり、私たちに落ち着きと安らぎを与えてくれます。
    ・美しい花や鮮やかな紅葉が季節の移り変わりを知らせてくれます。
    街路樹はまちに自然と四季をつくります
    街路樹は生活環境を守ってくれます。
    ・交通騒音を減らし、車の排気ガスやほこりも防いでくれます。
    ・葉っぱは二酸化炭素を吸い、まちに酸素を放出し空気をきれいにしてくれます。
    ・暑い夏の日ざしをさえぎり、涼しい歩道をつくります。
    街路樹は安全な環境を提供してくれます
    街路樹は交通の安全を確保してくれます。
    ・夜にはまぶしい車のライトをさえぎってくれます。
    ・車やバイクの事故から歩行者を守ります。
    ・車の運転手の視線を誘導して道路の方向を知らせ安全な走行を楽しめます。
    街路樹は生活環境を守ってくれます
    街路樹は安全な環境を提供してくれます
    ・風の勢いを弱め、砂・吹雪などから守ってくれます。
    ・火災などが燃え広がるのを防ぎ、避難の道を確保します。
    街路樹は交通安全を確保してくれます
     
     
     

    街路樹はこんなに役立っています


    豊かな緑は都市の風景にいろどりとうるおいを与え、人々の心をなごませてくれます。街路樹はのびのびと大きく健全に育ち、街の緑もボリュームアップしました。
    http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009711.html
     
     
     

    街路樹

    街路樹の例(仙台市・定禅寺通り
     
     街路樹(がいろじゅ)とは、市街地道路に沿って植えられた樹木のこと。市街並木(しがいなみき)ともいう。
     街路樹(市街並木)と並木(地方並木)とは区別される場合もあるが、日本では一般に、街路に沿って並び立っている(街路樹)を並木ともいう。街路に存在すれば、並んでおらず単独で存在する木についても街路樹と呼ぶこともある。街路樹は主に高木のことをいうが、低木地被植物についてもいう。通常、市街並木は並んでいる高木についてをいう。
     
     都市の美観の向上や道路環境の保全、歩行者等に日陰を提供することなどが目的である。一般に、歩道車道寄りや中央分離帯に植えられる。
     
     日本の道路法(第二条)では街路樹は道路標識などと同じ「道路の付属物」と位置づけられている。街路樹の維持管理には道路特定財源も使われている。
     
     道路法
     
     第一章 総則

    第一条
      この法律は、道路網の整備を図るため、道路に関して、路線の指定及び認定、管理、構造、保全、費用の負担区分等に関する事項を定め、もつて交通の発達に寄与し、公共の福祉を増進することを目的とする。

     
    第二条
      この法律において「道路」とは、一般交通の用に供する道で次条各号に掲げるものをいい、トンネル、橋、渡船施設、道路用エレベーター等道路と一体となつてその効用を全うする施設又は工作物及び道路の附属物で当該道路に附属して設けられているものを含むものとする。
     
     この法律において「道路の附属物」とは、道路の構造の保全、安全かつ円滑な道路の交通の確保その他道路の管理上必要な施設又は工作物で、次に掲げるものをいう。
     
     道路上のさく又は駒止
     
     道路上の並木又は街灯で第十八条第一項に規定する道路管理者の設けるもの
     
     道路標識、道路元標又は里程標
     
     

    街路樹の効果

    街路樹のある道路
    シャンゼリゼ通り(フランス・パリ)
    ケヤキの街路樹
    青葉通り(宮城県仙台市)
    街路樹のある歩道と街路
    (大阪市北区茶屋町
    街路樹のある道路
    福岡県道24号(福岡市東区香椎)
    街路樹の主な効果を以下に挙げる。これら効果の中には、国・地域などに特有のものや、落葉樹で葉がない時期には効果が低減する場合がある。

    二酸化炭素の吸収

     国土技術政策総合研究所の委託による資料によると、樹高3.5mのケヤキを50年間植える事により、消費される燃料と比較すると、正味での多くのCo2吸収が期待される。
     
    街路樹は、京都議定書の枠組みにおいて、都市緑化に よるCO2吸収源の一つとして位置付けられている。
     
     
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    海鮮や 十兵衛
     
     
     
     
     
     
     海鮮居酒屋志なのすけ 
     
     〒543-0001 大阪府大阪市天王寺区上本町6-2-12-2F 電話番号06-6762-6167
     

    会社概要

    社名所在地代表者設立事業内容資本金
    株式会社クロスキンキ
    本社:〒570-0041 大阪府守口市東郷通3丁目12番6号
    代表取締役社長 南 卓治
    昭和37年(1962年)10月26日
    飲食店(志な乃亭・志なのすけ・漁師の宴・志なのや)の経営
    宅配弁当店(志な乃庵)の経営
    2億800万円
     
     
     
     
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    街路樹損壊に対する刑事告訴について
    1.事件の概要
     市道(旭町公園前交差点南側)で、ダンプカーが乗用車に接触し、歩道の街路樹に衝突、街路樹を損壊する事件が発生。

    2.被害状況
    街路樹のトウカエデ1本

    3.告訴経緯
    告訴日
    平成21年11月13日

    経緯
     市の管理する街路樹(トウカエデ)を損壊したものであり、市民の財産に被害を与えたものである。
    器物損壊につき刑事告訴を行うものである。

    罪名、罰条
     器物損壊罪、刑法261条
     
     
     
     
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    刑法第261条
    前三条に規定するもののほか、他人の物を損壊し、又は傷害した者は、三年以下の懲役又は三十万円以下の罰金若しくは科料に処する。

    行為の内容

    本罪は「損壊」又は「傷害」を構成要件的行為とする。
    損壊の意義
    学説は多岐にわたるが、通説判例は、その物の効用を害する一切の行為をいうとしている。ゆえに物理的な損壊に限らず、心理的に使用できなくするような行為も損壊といえる。また、その物が本来持っている価値を低下させるのも損壊とみなされる。
     
     
     
     
    大阪府警も捜査しています。
     
     
    しなのすけ
     
     
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    植栽帯の樹木が植わっているべきところに灰皿やゴミ容器がみだりに捨ててある。
     
     
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     しぼりたて生酒の厨房機器がみだりに捨ててある。
     
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    (株)ワールド産業<BR>
    092-245-3400<BR>
    大阪406-6682-7008
     
     
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    ごみの不法投棄

    美観を損ねるだけでなく、交通事故の原因にもなり、危険です。
    「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」により、5年以下の懲役もしくは3億円以下の罰金、またはその両方が科される場合があります。なお、未遂は罰せられます。

    なお、ごみの出し方については「家庭」から出る資源とごみの分け方・出し方をご参照ください。
     
     
    廃棄物の処理及び清掃に関する法律
    (昭和四十五年十二月二十五日法律第百三十七号)
     
    第十六条 何人も、みだりに廃棄物を捨ててはならない。
     
    第五章 罰則

      次の各号のいずれかに該当する者は、五年以下の懲役若しくは千万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。
     
    十四 第十六条の規定に違反して、廃棄物を捨てた者
     
     

    第三十二条 法人の代表者又は法人若しくは人の代理人、使用人その他の従業者が、その法人又は人の業務に関し、次の各号に掲げる規定の違反行為をしたときは、行為者を罰するほか、その法人に対して当該各号に定める罰金刑を、その人に対して各本条の罰金刑を科する。
     第二十五条、第十四号 三億円以下の罰金刑
     
     
     
     
     
     
     

    道路占用許可制度について

    道路の占用の概要

     「道路の占用」の概要は以下のとおりです。
     道路上に電柱を設置する場合など、道路に一定の施設を設置し、継続して道路を使用することを「道路の占用」といいます。この道路の占用は地上に施設を設置する場合だけでなく、電気・電話・ガスを道路の地下に埋設する場合や、道路の上空に看板を突き出して設置する場合なども含まれます。

     「道路の占用」をするためには、道路を管理している「道路管理者」の許可を受ける必要があります。(道路法第32条)国が管理している指定区同の国道については、当該国道を管理している国道工事事務所の「事務所若しくは出張所」から「道路占用許可申請書」の用紙を受けとり、必要事項を記入のうえ「出張所」に占用許可申請することになります。

     「道路の占用」を行うことのできる物件は、道路法及び同法施行令で規定されています。(道路法第32条及び同法施行令第7条)
     上下水道、鉄道、電気、電話、ガスなどのそれぞれの事業法に基づく施設を設置するために、公益企業者が行う道路の占用(道路法第36条)を、通常「企業占用(義務占用)」といい、それ以外の例えば看板などの道路の占用を、「一般占用」といいます。

     「企業占用」「一般占用」とも、占用申請の提出から許可までの一連の手続きの流れは基本的に同じですが、「企業占用」がその性質から道路法で特例を設けている点等から、占用の期間や更新時の手続きが異なります。

     道路管理者による道路の占用の許可のほかに、道路交通法の規定により所轄警察署長から「道路使用許可」を受ける必要があります。
     道路使用許可の対象となる行為は以下のとおりです。(道路交通法第77条)

    • 道路において工事若しくは作業をしようとする行為
    • 道路の石碑、広告板、アーチ等の工作物を設置する行為
    • 場所を移動しないで、道路に露天、屋台等を出そうとする行為
    • 道路において祭礼行事、ロケーション等をしようとする行為

     道路の占用に関して、上記の行為が生じる場合は「道路使用許可」の手続きも必要になります。なお、「道路占用許可」と「道路使用許可」の申請の提出はどちらか一方の窓口を経由して行うことができるとされています。(道路法第32条第4項、道路交通法第78条第2項)

     

    次の場合には、適用しません。

    • 申請内容が先例のない場合等であって、1ヶ月以内に承認又は、許可を行うことが困難な場合。
    • 占用の許可にあたって国土交通省へ事前協議が必要な場合。

    道路占用の期間について

    占用の期間
     道路占用の許可には、占用することのできる期間も含まれていますが、(道路法第32条第2項)必ずしも、申請者が希望する占用期間を許可の際に採用することとはなりません。 道路法では、占用物件毎に次のように占用期間の最高限度を定め、その範囲内で期間を決定することとしています。(道路法施行令第9条)
    • 道路法第36条に規定する事業者が設ける占用物件(企業占用物件)は、10年以内としています。
    • その他の物件(一般占用)については、5年以内としています。

    占用料について

    占用料について
     道路の占用の許可は、一般公衆の自由な通行・使用を目的とする道路を、この一般用に著しい支障を与えない場合に限って、特定の者に排他独占的に使用する権利を与えるものです。
    占用料の徴収については、道路法において規定されており、この占用料徴収権は、道路管理権に基づくものです。(道路法第39条)
    占用料の額及び徴収方法
    • 道路の占用料の額は、指定区間内の国道にあっては政令(道路法施行令)で定められています。
    • 占用の期間が1箇月未満の場合にあっては、消費税法第6条の規定に基づき消費税を徴収します。(道路法施行令第19条の 2)
    • 政令に基づき算出された占用料は、占用の許可をした日から1月以内に納入告知書により一括して徴収します。(同法施行令第19条の3)
    • 占用の期間が翌年度以降にわたる場合には、翌年度以降の占用料は、毎年度、当該年度分を4月30日までに徴収することになります。(同上)
    • 徴収した占用料は返還しません。(同法施行令第19条の3の第2項)ただし、道路法第71条第2項に規定により道路の占用の許可を取り消した場合においては、取消後の占用料を返還することとなります。
    • 納入告知書により納入を命じても、占用者が占用料を納入しない場合には、督促状により納付すべき期限(発行の日から20 日)を指定して督促しなければなりません。
    • 国等の行う占用や地方公共団体の行う占用等公共性の高いものの占用料金については、道路法第39条をはじめとして、道路局長通達や地方整備局長通達により減免されています。
     
     
    (道路法第32条~第41条関係)
     道路の占用とは(許可対象物件)
      道路法第32条第1項には、「道路に次の各号のいずれかに掲げる工作物、物件又
     は施設を設け、継続して道路を使用しようとする場合においては、道路管理者の許
     可を受けなければならない。」と規定されています。
     
      道路とは…道路区域の範囲であり、路面を中心にその上下に及びますが、上限の
           範囲は無限ではなく道路管理上必要な範囲と考えられています。
     
      継続して…使用状態に相当程度の固定性が備わっていればよく、必ずしも長時間
           継続する必要はありません。一回の時間は短くても反復性、固定性の
           あるものは、「継続して」に該当します。
     
      許可対象…占用物件については、次の「各号(道路法第32条第1項各号及び同
           法施行令第7条第1項各号)のいずれかに掲げる」に定める物件以外
           には認めないこととされています。(限定列挙主義)
     
     道路法第32条第1項
     1 電柱、電線、変圧塔、郵便差出箱、公衆電話所、広告塔その他これらに類する
       工作物
        (例:派出所、公衆便所、消火栓、くずかご、フラワーボックス、ベンチ、
           上屋、非常用救命袋固定環、バス待合所、街灯)
     
     2 水管、下水道管、ガス管その他これらに類する物件
        (例:ケーブル管、熱供給管、都市廃棄物管、石油管、温泉パイプ)
     
     3 鉄道、軌道その他これらに類する施設(例:索道)
     
     4 歩廊、雪よけその他これらに類する施設
        (例:アーケード、路上に設ける日除け、がんぎ)
     
     5 地下街、地下室、通路、浄化槽その他これらに類する施設
        (例:地下タンク貯蔵所、地下駐車場、ベルトコンベア、防火用地下水槽)
     
     6 露店、商品置場その他これらに類する施設
        (例:靴磨き、売店、コインロッカー、材料置場)
     
     7 前各号に掲げるものを除く外、道路の構造又は交通に支障を及ぼす虞のある工
       作物、物件又は施設で政令(道路法施行令第7条)で定めるもの
     
     道路法施行令第7条
     1 看板、標識、旗ざお、パーキング・メーター、幕及びアーチ
    2 太陽光発電設備及び風力発電設備
     
     3 津波からの一時的な非難場所としての機能を有する堅固な施設
     4 工事用板囲、足場、詰所その他の工事用施設
     5 土石、竹木、瓦その他の工事用材料
     
     6 防火地域内に存する建築物を除去して、当該防火地域内にこれに代わる建築物
       として耐火建築物を建築する場合において、当該耐火建築物の工事期間中当該
       既存建築物に替えて必要となる仮設店舗その他の仮設建築物
     
     
     11 建築基準法第85条第1項第1号に該当する応急仮設建築物で、被災者の居住
       の用に供するため必要なもの
     12 自転車、原動機付自転車又は自動二輪車を駐車させるため必要な車輪留止め装
       置その他の器具
     
     
     
     
    少なくとも今まで公用地を使った金は払え!!

    転載元: 美しい土地研究会


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    メタンハイドレート

     
     メタンハイドレート: methane hydrate)とは、メタンを中心にして周囲を分子が囲んだ形になっている包接水和物である。低温かつ高圧の条件下で、水分子は立体の網状構造を作り、内部の隙間にメタン分子が入り込み氷状の結晶になっている。
     メタンは、石油や石炭に比べ燃焼時の二酸化炭素排出量がおよそ半分であるため、地球温暖化対策としても有効な新エネルギー源であるとされる(天然ガスも参照。)が、メタンハイドレートについては2013年時点では商業化されていない。化石燃料の一種であるため、再生可能エネルギーには含まれない。
    燃えるメタンハイドレート
     
     
     

    性状

     見た目は氷に似ている。1 m3のメタンハイドレートを1気圧の状態で解凍すると164 m3のメタンガスと水に変わる。解凍する前のメタンはメタンハイドレートの体積の20 %に過ぎず、他の80 %は水である。分子式は CH4•5.75H2O と表され、密度は0.91 g/cm3である。火をつけると燃えるために「燃える氷」と言われることもある。
    水分子で構成される立体網状構造の間隙中にガス分子が位置して安定な固体結晶となっている氷状の物質は「ガスハイドレート・クラスレート」と呼ばれる構造になっている。
     
     ガスハイドレートには、ガスが失われると残された立体網状構造である「包接格子」だけでは格子構造を維持できないもの(ガスハイドレート・クラスレート)と、包接格子だけでも格子構造を維持出来るものがある。
     メタンハイドレートは「包接化合物」とも呼ばれるクラスレートであり、骨格となる水分子間の5-6 Å(オングストローム、1 Å = 100 pm)程度の隙間に入り込んだガスが出て行くと格子は壊れる。

    生成過程(海底下)

     メタンが海底下で大量に保存されている原因は、無機起源説と、生物起源説に大別される。
     中でも、現在までに報告されているメタンハイドレートを構成するメタンの炭素同位体比は比較的小さい値(13Cが少ない)を示しており、これらのメタンは海底熱水系等において確認されている非生物起源のものではなく、堆積物中で有機物の分解によって生じる生物起源のものを主としていると考えられている。
     

    埋蔵域

     状況によって異なるがおおむね、大陸棚が海底へとつながる、海底斜面内の水深500-1000 m(2000mまでとする研究もある)での、地下数十から数百mに存在し、メタンガス層の上部境目に存在するとされている。通常は高圧下でありながら、凍った水分子の篭状の結晶構造に封じ込められている。

    日本近海の埋蔵域

     2008年現在、日本近海は世界有数のメタンハイドレート埋蔵量を持つとされる。本州四国九州といった西日本地方の南側の南海トラフに最大の推定埋蔵域を持ち、北海道周辺と新潟県沖、南西諸島沖にも存在する。
     また、日本海側には海底表面に純度が高く塊の状態で存在していることが独立総合研究所の調査よりわかっている。日本海の尖閣・竹島を始めとする領土問題は日本海側のメタンハイドレートが目的だとの見方もある。
     
     なお、新潟、秋田、京都など日本海沿岸の10府県による「海洋エネルギー資源開発促進日本海連合」は、「日本海側では、一部の地域における学術的な調査の実施にとどまり、開発に向けた本格的な調査・産出試験が実施されていない」として、日本海のメタンハイドレートの開発に向け、経済産業省資源エネルギー庁に予算の確保を要請しており、海洋基本法に合わせて海洋政策の指針とする2013年度「海洋基本計画」では2018年度の商業化と2023年度以降の民間企業主導による商業化を目途として日本海側も調査する方針を示している。
    2008年までに調査された(民間等による一部の調査は除く)日本周辺海域におけるメタンハイドレート推定埋蔵域

    日本近海の埋蔵量

     日本のメタンハイドレートの資源量は、1996年の時点でわかっているだけでも、天然ガス換算で7.35兆m3(日本で消費される天然ガスの約96年分)以上と推計されている。もし将来、石油や天然ガスが枯渇するか異常に価格が高騰し、海底のメタンハイドレートが低コストで採掘が可能となれば、日本は自国で消費するエネルギー量を賄える自主資源の保有国になるという意見があり、尖閣諸島近海の海底にあるとされている天然ガスなどを含めると日本は世界有数のエネルギー資源大国になれる可能性があるという意見もある。
     
    日本におけるメタンハイドレート開発の歴史
    日本の太平洋側におけるメタンハイドレート開発の歴史は、以下のとおりである。
    • 1980年 南海トラフ周辺でメタンハイドレートを発見
    • 1989年 奥尻海嶺でサンプル回収
    • 1990年 四国沖でサンプル回収
    • 2000年 経済産業省に開発検討委員会設置
    • 2001年~2002年 カナダでメタンハイドレートから世界初のガス産出
    • 2007年~2008年 カナダと共同で陸上実験し、減圧法で投入した30倍のエネルギー採集に成功
    • 2008年 バイカル湖で湖底面の回収実験
    • 2010年 新潟県上越沖で試料採取
    • 2012年 秋田~山形沖、網走沖で試料取得
    • 2013年 愛知・三重沖で世界初の洋上産出
     

    日本の海洋産出試験

     2012年2月石油天然ガス・金属鉱物資源機構 (JOGMEC) は、メタンハイドレートから天然ガスを取り出す海洋産出試験に着手すると発表。世界初としている。事業主は経済産業省、作業地点は愛知県沖(第二渥美海丘)[† 2]2012年2月中旬に試掘を始め、2013年の1~3月の期間に産出試験(フローテスト)を予定・計画している。商業生産に向けた技術基盤の整備は、2016~2018年度を予定として進める。
     
     2013年3月12日、世界初の海底からのメタンガスの採取を日本の独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構(JOGMEC)と産業技術総合研究所が愛知県と三重県の沖合で成功したと発表した。
     

    施設

     国内においては、和歌山県御坊市の日高港新エネルギーパークにおいてメタンハイドレートの紹介が行われており、事前に予約した一定数以上の団体客は、シャーレに乗せられた人工的に造りだしたメタンハイドレートに触れることができたり、燃焼実験を見ることが可能となっている。
     
     

    関連項目

    外部リンク

    メタンハイドレートとは何か?

    燃える氷

     メタンハイドレートはよく「燃える氷」と呼ばれます。人工のメタンハイドレートは確かに白く、触ると冷たい氷のような物質です。「メタンハイドレートの見た目はシャーベット状」と表現される方がいらっしゃいますが、シャーベット状というよりも氷状です。
     驚くことに、この氷のようなメタンハイドレートに火を近づけると燃え始めるのです。そして、燃えた後には水しか残らないという、とても不思議な物質です。
     
    「燃える氷」人工メタンハイドレートを燃焼させたもの MH21が開発対象としている天然のメタンハイドレートを含む地層
    (左)「燃える氷」人工メタンハイドレートを燃焼させたもの
    (右)MH21が開発対象としている天然のメタンハイドレートを含む地層

    メタンハイドレートとは何か?

     メタンハイドレートは「メタン(methane)」と「ハイドレート(hydrate)」の2語から構成されています。メタンは「メタンとは何か?」でご説明したように、燃えるガスであり、エネルギー資源である天然ガスの主成分です。では「ハイドレート」とは何でしょうか?
     ハイドレートを日本語にすると「水和物」となり、水が存在することになります。水分子がある温度・圧力環境で、かご状の構造を作ります。そのかご構造の中にメタン分子が含まれているものをメタンハイドレートと呼びます。
    メタンハイドレートのように、何かの分子(ホスト分子)が分子規模の空間(かご構造)を作り、その中に他の分子(ゲスト分子)を取り込むものを包接化合物(クラスレート)と呼びます。水分子が作る「かご構造」の中にはメタン
    メタンハイドレートの結晶構造 三角緑はメタン分子、球赤は水分子。水分子がかご構造を作り、その中にメタン分子が含まれる
    メタンハイドレートの結晶構造 三角緑はメタン分子、球赤は水分子
    水分子がかご構造を作り、その中にメタン分子が含まれる。
    メタンハイドレートはメタンと水だけによって構成されています。したがって、メタンハイドレートに火を近づけると、水に囲まれていたメタンが燃え、燃えない水が残るのです。
    ただし、水分子が作る「かご構造」は氷が作る構造とは違います。したがってハイドレートは氷ではありません。「燃える氷」は見た目の総称であり、物理化学的には「氷」でないことにご注意ください。
     
     
     逆に、メタンハイドレートは、自身の体積の中に約160-170倍のメタンを取り込むことができるということになります。この性質を利用し、メタンを主成分とする天然ガスをハイドレート化させ、体積を小さくして効率よく天然ガスを輸送しようという試みも、天然メタンハイドレート開発とは別に研究されています。(参照:石油天然ガス・金属鉱物資源機構HP
    メタンハイドレートの体積
    メタンハイドレートの体積
    みなさんはメタンハイドレートの実物をご覧になったことがあるでしょうか?多分ないと思います。その理由は、われわれが住んでいる環境(温度、圧力)下では存在できないからです。
    ではどういった環境の下で存在することができるのでしょうか?キーワードは「低温高圧」です。
     
    メタンハイドレートの安定条件
    メタンハイドレートの安定条件
     
     
    メタンハイドレートについて、下記のようにまとめてみます。
    1. メタンハイドレートは「燃える氷」と呼ばれているが、物理化学的には氷ではない。しかし、見た目が氷のため、そう呼ばれている。
    2. メタンハイドレートは、水分子が作るかご構造の中にメタンを閉じ込めた物質である。
    3. メタンハイドレート1に対して、160-170倍(0℃1気圧)の体積のメタンが含まれている。
    4. メタンハイドレートが存在する環境は「低温高圧」。

    自然界の天然メタンハイドレート

    メタンハイドレートは「低温高圧」で存在することができます、すなわち、「温度が低い、かつ、圧力が高いところ」となります。定量的には以下のとおりです。
    • 1気圧下でマイナス80℃以下
    • 10気圧下でマイナス30℃以下
    • 50気圧下でプラス6℃以下
    • 100気圧でプラス12℃以下

    陸上のメタンハイドレート

    陸上で温度が低いところを考えるならば、北極や南極の近くの土地になるでしょう。ただし、メタンハイドレートは1気圧のもとではマイナス80℃以下の低温でなければ存在できません。極寒の極地方でも、常時マイナス80℃以下になることはありえません。
    しかし、圧力が高くなれば、温度が多少高くてもメタンハイドレートは存在できるので、地層の重みがかかる地層中にメタンハイドレートが存在することができる可能性があります。
     
    陸上のメタンハイドレート
    陸上のメタンハイドレート
     

    海洋のメタンハイドレート

    メタンハイドレートが存在できる低温高圧の条件をもう一度見直すと、「50気圧下でプラス6℃以下」とあります。低温と言っても、圧力が高くなればプラスの温度、すなわち、氷でなく水が普通に存在する温度でもメタンハイドレートは存在することができます。そして、海洋においてこの環境を実現する場所が、水深500m以深の深海底面の下となります。
     
     
    海洋のメタンハイドレート
    海洋のメタンハイドレート
    天然メタンハイドレートの存在環境について以下のようにまとめてみます。
    • メタンハイドレートが陸上で存在する場所は、永久凍土層が発達している地域である。
    • メタンハイドレートが海洋で存在する場所は、水深500m以深の深海底面の下、数100m程度の地層中。
    • 日本に大規模な永久凍土層は存在しないので、日本のメタンハイドレートは海洋のみに存在する。
    下図はこれまで世界でメタンハイドレートが発見・分布予測されている場所を示しています。
    ガスハイドレート世界分布図
     
     
     
     
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    転載元: 日本国護持!エネルギー有効利用!地熱利用!地中熱利用


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    事件概要と先行研究

     明治5年6月5日、中国の澳門からペルーに向かっていたペルー船籍のマリア・ルス号が嵐で船体が損傷したため横浜港へ修理の為に入港した3。同船には清国人苦力231名が乗船していた。

     これを受けて当時の外務卿副島種臣は日本に管轄権がある事件として、花房義質そして、船内で虐待を受けていた清国人の木慶が船外に脱出し、港内の英国軍艦アイアンデュークに救いを求めた。
     英国領事から通告を受けた神奈川県は木慶を引き取り、同船長ヘレイラを召還し、木慶を責めないことを条件にその身柄を引き渡したが、船長は約束に反して船内で同人を処罰した。そのため、イギリスはマリア・ルス号を「奴隷運搬船」と判断し、日本政府に対し清国人救助を要請した。
     
     
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     ペルー(秘露)清横浜日清間-日清修好条規(明治年)日秘間-条約未締結4予定航路明治年月日入港565に事実調査をさせ、その後、神奈川県権令大江卓を裁判長として県庁に法廷を開かせた。同時に、マリア・ルス号に横浜港からの出航停止を命じ、清国人全員を下船させた。そして7月27日、苦力の虐待は不法行為であるから開放すべきとの判決が下る一方で、船長ヘレイラは情状が酌量され無罪となった。
     これに対して船長は、移民契約不履行の訴訟を起こした。しかし、日本政府は領事に臨席を求めることなく裁判を開き8月14日に契約無効の判決を下し、ヘレイラはマリア・ルス号を放棄して本国に帰還せざるを得なくなった。そして、日本政府は日清修好条規第九条に基づき苦力230名を清国側に引き渡し、事件は終結したかに見えた。
     
     
     
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     ところが、日本側の処置に反発したペルー政府は、特命全権公使オーレオ・ガルシア・イ・ガルシアを日本に派遣し、裁判の不法性を非難し謝罪と損害賠償を要求した。しかし決着はつかず、ロシア皇帝に仲裁裁判を依頼することになった。そして、日本側は榎本武揚、ペルー側はジ・ア・ド・ラヴァレを代理者としてペテルブルクに派遣し裁判を進めた。
     そして、明治8年6月13日、「日本側の措置は一般国際法にも条約にも違反せず妥当なものである」とする最終判決が下り、ペルー側の訴えは退けられた。この事件によって、日本は初の国際仲裁裁判に勝利し、日本国内の法的措置の正当性を世界に知らしめることが出来た。そして、奴隷売買ないし貿易を禁じる法令が諸外国で発令されていく契機にもなった。同時に、ペルー側から日本国内でも娼妓という「人身売買」が公然と行われており奴隷売買を非難する資格がないと批判されたこともあり、公娼制度が廃止され芸娼妓解放令が出されるに至った。
     このようにマリア・ルス号事件は、19世紀における国内外の人権問題や裁判を考える上で、重要な歴史的意義を帯びている。
     
     
     
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     ところで、マリア・ルス号事件研究の現状は、日本国内における裁判に焦点を当てているものが多く、ロシア皇帝による国際仲裁裁判については重視されていない。その理由は、当時の潮流から仲裁裁判の結果が当然視される傾向があるためであろう
     
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    転載元: 水.土壌.心の汚染をカメラを通して考え真実を伝える


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    唐人墓

     
    唐人墓
     
     
    唐人墓(とうじんばか)は、沖縄県石垣市観音崎にある墓地咸豊2年(1852年)のロバート・バウン号事件で犠牲になった中国人苦力の慰霊のため、1971年昭和46年)に建立された。
     
    中国人の死因
     咸豊2年(1852年)、中国アモイからカリフォルニア州へ航行中のアメリカの苦力貿易船、ロバート・バウン号内で、船長の苦力虐待を契機に暴動が発生した。2月19日石垣島の崎枝村沖合で座礁し、380人の中国人苦力が上陸した。事情を知らない八重山の役人たちは崎枝村の赤崎に収容所を設けた後、監視しやすい富崎に移して収容した。
     その後、離礁したバウン号の報告を受けてイギリス船2隻が石垣島に来航し、3月16日に富崎の収容所を砲撃し、さらに武装した兵士200人以上が上陸して逃走した苦力を射殺・捕縛して3月23日に出航した。また、4月4日にはアメリカ船1隻が来航し、兵士100人以上が上陸・探索を行ない、4月12日に引上げた。
     
     捕縛を免れた中国人は琉球王国に保護されたが、収容所の衛生は悪く、翌年9月29日に中国に送還された生存者は172名で、この間に病死、自殺、あるいは行方不明になった者は128名に上った。これを弔った三百唐人墓とよばれる古い石積みの墓が近年まで付近に点在しており、陶製の墓碑八重山博物館に収蔵されている。

    所在地

    墓所内
    沖縄県石垣市新川1625-9

    交通アクセス

    • 石垣空港から路線バスで15分、「唐人墓」下車すぐ
     
    ロバート・バウン号事件
     
     
     東アジアの国際秩序が崩壊,再編されようとする時点で発生したロパート・パウン号事件とそれをめぐる関係諸国の対応の仕方を検討することによって,事件の歴史的意義を提示しようとした私の報告に関連して,華僑史もしくは苦力貿易の展開という巨視的な視点からロパート・パウン号事件へアプローチしたのは,福建師範大学の王啓民氏であった。
     
    ①苦力貿易の歴史は,第一期(18世紀末からアヘン戦争前夜まで),第二期(アヘン戦争から19世紀70年代まで),第三期(19世紀70年代末から19世紀末まで),第四期120世紀初頭から20世紀20年代まで)に時期区分される。
     
    ②苦力貿易がピークに達するのは,第二期の19世紀50~60年代であって,第三期以降は下降傾向をたどるが,
    その最大の原因は植民地主義者に虐待された苦力たちが反乱,抵抗をくりかえしたことにあり,「契約移民史は中国人契約労働者の闘争史であるということもできる」。
     
    ③ロパート・パウン号事件は苦力貿易がピークに達する第二期の事件で,中国人民の植民地主義への抗議を示すとともに,琉球人民の中国人民への友好,連帯を示す事件であったと考える。
     
    ④中国(福建)人民は植民地主義者の苦力貿易に憤激し,政府当局へ代表を派遣して苦力救済を請願したが,清朝の地方当局は植民地主義者から賄賂をもらって黙認するばかりで,腐敗・堕落していた。
     
     
    I西里報告「ロバート・バウン号事件とその歴史的意義」
    1事件の世界史的背景
     欧米資本主義列強の世界市場へくみ入れられる以前の東アジアには,近代的な「国際法」(万国公法)にもとづくヨーロッパ世界の国際関係とは異なる特殊な国際関係が形成されていた。
     
     それは第一に,清国と朝鮮・琉球・越南などの諸国との関係であり,
    第二に,幕藩制の日本(薩摩藩)と琉球の支配・従属関係である。

     
    第一と第二の「国際」関係は,琉球を媒介として-つに結びつけられ,共通の政治・経済(交易)。
     
     文化圏としての東アジア世界を形成する枠組みとなっていたといえる。換言すれば,琉球は清国を中心とする国際秩序と幕藩制日本(薩摩藩)を-つに結びつける結節点,つまり東アジア世界の「扇の要」(キーストン)としての位置を占めていたということになる。
     1840-42年のアヘン戦争は,東アジア世界の国際秩序に対するイギリス資本主義の挑戦であった。
     清英南京条約につづく清仏黄浦条約,清米望厘条約の締結によって,東アジアの国際秩序は激しく動揺せざるをえなかった。
     東アジア世界のキーストンとしての琉球へも,欧米資本主義列強の艦船が陸続として押しよせ,修好・貿易・布教を要求しはじめた。
     琉球及びその他の東アジア諸国は,日ましに強まる欧米列強の圧力の前になす術を知らず,ひたすら従来の体制の国際秩序維持機能に頼らざるをえなかったが,清国自体の威信低下にともなって,体制の機能も麻庫しはじめたのである。
     資本主義の原料供給地,商品販売市場,あるいは労働力供給源として,アジア・アフリカ・中南米に植民地を求めて進出してきた欧米列強は,1848年のカリフォルニア金鉱山の発見を契機に,さらに大くの労働力をアジアに求め,とりわけ海外渡航禁止令を無視して清国から大量の苦力(クーリー,中国人労働者)をアメリカその他へ向け「輸出」するにいたった。
     
     同年,フランスの二月革命直後,奴隷完全解放が決議されたことに象徴されるように,黒人奴隷貿易の禁止,奴隷制度廃止の潮流は,世界の趨勢となりつつあったにもかかわらず,否,それ故にかえって,プランテーションに代表される資本主義企業は,黒人奴隷に代る労働力を探し求めざるをえず,ここに紗いてインドや中国の苦力の存在がクローズアップされるにいたったのである。
     かくて,治外法権に守られた欧米人の手によって,中国沿岸の開港都市からアメリカ大陸やキューバ・西インド諸島へ向けて大量の苦力が送り出された。
     いわゆる「苦力貿易」の全面展開である。「苦力貿易」は「もう一つの奴隷貿易」と称され,たように,誘拐同然の手法で駆り集められた苦力たちは,「猪仔」(豚)として取り扱われ,悲惨な境遇に投げこまれた。
     
     
     19世紀の50年代,「苦力貿易」が最盛期を迎えたころには,琉球列島は中国沿岸の開港都市から目的地のハワイやアメリカ大陸へ向う「苦力貿易」船の海上ルートに位置していた。
     多数の「苦力貿易」船が頻繁に琉球近海を往来した。アメリカ船ロパート・パウン号(theRobertBowne)もその
    なかの一隻である。
     1852年4月,琉球列島のなかの石垣島へ「漂着」したパウン号は,「苦力貿易」の実態を暴露することになったばかりでなく,琉球・日本(薩摩)・清国・アメリカ・イギリスを含む当時の東アジアにおける国際関係の現実をも照射し,冊封体制がどの程度機能しえたかを示すテスト・ケースを提供した。
     
    2事件の原因と経過
    ①1852年3月21日,アメリカの「苦力貿易船」ロパート・パウン号は,400余名の苦力を乗せて厘門を出航し,アメリカのカリフォルニア(サンフランシスコ)へ向った。

     
    ②出航後まもなく、パウン号の船長や船員(イギリス人)たちは,苦力を裸にして固いブラシで身体をこすり冷水をかけ,弁髪を切断した外,病気で死にかかっていた苦力二人を海へ突き落したため,苦力たちは遂に不満を爆発させ,船長・副船長ら5名を殺害,パウン号を奪取し,船員たちを強制して進路を台湾へ向けさせた。

     
    ③同年4月8日,パウン号は八重山群島石垣島の崎枝村沖合いで座礁したため,苦力380名,アメリカ人一名が石垣島へ上陸,琉球の地方官たちに保護された。
    翌日,パウン号は離礁したが,船員たちは石垣島へ上陸した苦力とアメリカ人を放置したまま,船中に留まっていた20余名の苦力のみを乗せて匝門へ引き返した。

    ④琉球の地方官たちは,とりあえず崎枝村に仮宿舎を急造して残留の苦力たちを収容したが,まもなく宮崎村近辺に新築した宿舎へ移動させ,衣食を提供した外,医者を呼びよせて病人を治療させた。この間,二名の苦力が病没し,手厚く埋葬された。

     
    ⑤厘門へ帰還したパウン号から事件発生の通報をうけたアメリカ・イギリスの厘門駐在領事たちは,苦力捕縛のためにイギリス船二隻を石垣島へ派遣した。同年5月4日にコンテスト号(Contest)が,同年5月6日にはリリー号(Lily)が相ついで石垣島近海へ到来し,苦力たちの宿舎を威嚇砲撃した後,武装兵200余名を上陸させ,苦力捕獲作戦を展開した。
    上陸・捕獲作戦は-週間もの間,ほとんど毎日続けられ,上陸した200余名のイギリス兵たちは苦力23名を捕獲し,アメリカ人一名を救出した。この間に,苦力3名が銃殺され,2名は縊死し,14名は服従を申し出た。
     
    ⑥同年5月11日,イギリス船二隻が退去した後,山野に逃亡していた苦力たちは宿舎へもどり,琉球の地方官らの看護をうけたが,同年5月22日,またしても苦力捜捕のためにアメリカ船一隻〈サラトガ号)が石垣島近海へ到来した。翌日,太刀・槍・銃砲などで武装した100余名のアメリカ人たちは,上陸して山野を捜索し,苦力50名を捕獲,さらに同年5月28日にも同様の作戦を展開して苦力7名を捕獲し,翌日退去した。捕獲を免れた苦力たちは,再び宿舎へもどり,琉球の地方官らに介抱された。
     

    ⑦イギリス船リリー号で厘門へ連行された苦力21名のうち,18名は広州に送られたが,広州駐在のアメリカ代理公使パーカー(P,Parker)は,予備審査によって苦力の「海賊的行為」を有罪と認定し,同年6月14日,その旨を両広総督の徐広緒へ通知するとともに,清国側の正式裁判へ委ねるべく18名の苦力を引き渡した。同年7月9日,徐広緒は18名の苦力のうち1名だけを有罪と認定し,他の17名に無罪を宣告して放免した旨,パーカー
    へ通知したが,パーカーは徐広繕の判決を不当として納得せず,17名の苦力の取扱いをめぐって,パーカーと徐広緒の間に二か月にわたる交渉が続けられた。同年8月19日,パーカーはアメリカ国務長官ウェブスター(DanielWebster)へ書簡を送り,清国へ圧力を加えるためアメリカ海軍を急派すべしと主張したが,アメリカ政府のとりあげるところとはならなかった。
     

    ⑧石垣島駐在の地方官吏から再三にわたって事件の報告をうけた琉球王府は,残留苦力を福州へ護送するために三隻の船を用意したが,アメリカ・イギリスとの間に事端を生ずることを恐れて暫く護送計画の実行を中止し,とりあえず清国側への事件報告と苦力護送についての指示を仰ぐために,同年11月11日,請諭使として馬克承らを福州へ派遣した。翌年(1853年)の5月26日,福州琉球館在住の鄭維新(池宮城里之子親雲上)が福建当局の杏文を持参して福州を出発,同年6月23日那覇へ到着した。
     

    ⑨福建当局から琉球へ送られた杏文の内容は,「わが方(清国側)から厘門駐在のアメリカ・イギリス領事らに照会したところ,『すでに捕獲・連行されてきた苦力のうち,ある者は裁判にかけられ,ある者は無罪放免され,事件はすでに決着済みであるから,いまなお石垣島に残留している苦力の罪は不問に付す』との返答を寄せてきたので,アメリカ・イギリスに遠慮することなく,すみやかに福州へ護送するように」との趣旨であった。かくて,琉球王府は毛成憲(上里親雲上)らに苦力護送の任務を与え,護送船二隻を石垣島へ向わせた。
     

    ⑩1853年10月30日,毛成憲らは石垣島へ到着,翌日,一年七か月にわたって石垣島に滞留していた172名の苦力を海船二隻に分乗させて石垣島を出航,福州へ向った。同年11月6日,苦力護送船は断江省定海県の沖合いで,突然,海賊船八隻の襲撃を受け,武器・銀両・貨物をすべて掠奪されるなどのハプニングに遭遇したが,11月8日,ようやく福州へ到着した。毛成憲らは11月14日,福州海防官へ苦力を送り届け,ひとまずその任務を果した。かくて,ロパート・パウン号事件は,琉球にとって,ひとまず解決したわけである。
     
     
     
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    石垣の唐人墓

    ロバートバウン号事件
     1852年2月、厦門(アモイ)で集められた400人余りの苦力(クーリー)が、米国船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途中、辮髪(べんぱつ)を切られたり、病人を海中に投棄されるなどの暴行に堪えかねてついに蜂起して船長ら7人を打ち殺しました。
     船はその後台湾に向かいましたが石垣島沖に座礁、380人が島に上陸。 石垣の人々は仮小屋を建て、彼らを収容しました。 しかし米国と英国の海軍が三回にわたり来島、砲撃を加え、武装兵が上陸してきびしく捜索を行いました。
      中国人達は山中に逃亡しましたが、銃撃、逮捕され、自殺者、病没者も続出したとの事です。 琉球王朝と蔵元は人道的に対応、その後事件処理に関する国際交渉に取り組んだ結果、翌1853年9月、琉球側が船二隻を仕立て、生存者172人を福州に送還。 ここで亡くなられた中国人を祭ったのが石垣島にある唐人墓です。
     
     
     
     
     
     
     

    西里喜行「バウン号の苦力反乱と琉球王国 揺らぐ東アジアの国際秩序」

    バウン号の苦力反乱と琉球王国.jpg榕樹書林沖縄学術研究双書。
     日本で言えば幕末の1852年。当時、西洋人の手によって半ば奴隷貿易に近い形で中国人苦力を米国西海岸に送る「苦力貿易」に携わる人買い船が太平洋を往来していた。アメリカ船籍ロバート・バウン号もその一つであり、四百余名の中国人苦力を載せて廈門からカリフォルニア州に向け航海中であったが、弁髪を切り落とし、病者を海に投げ込むという、さながら大西洋の奴隷船と変わらぬ西洋人達の虐待に耐えかねた苦力はついに洋上で暴動を起こし船を台湾に向ける。しかしかなわず石垣島崎枝村沖に漂着。琉球からみれば辺地の八重山の行政官達は、四百余名の難民の処遇と英・仏・清の絡む複雑な国際関係という途方もない難題を突きつけられることになった…
     「紳士の国」だの「不朽の自由」だの「民主主義は普遍的な価値」を標榜している国の、少し前の蛮行と日本の正義の記録。
     
     
    ロパート・パウン号事件の歴史的意義

    ①ロパート・パウン号事件は,欧米資本主義列強の苦力貿易の実態を暴露した。事件の直接的原因がパウン号船長プレイスン(LBryson)らの苦力虐待にあったことは,広州駐在のアメリカ代理公使パーカーでさえ認めており,「きわめて遺憾なことに,プレイスン船長が苦力を虐待したという伝聞は,現在では直接的に証明されている」(1852年5月17日付の米極東艦隊司令あて書簡)と言明せざるをえなかった。広州駐在のイギリス領事パウリング(BowringSirJohn)も,1852年ごろの厘門における「猪仔館」(出港前の苦力収容所,パラクーン)の状況について,次のように述べている。-「幾百人もの苦力が猪仔館に集められ,まる裸にされ,各人の予定された目的地に応じて胸にC〔キューバ〕,P〔ペルー〕,S〔サンドウィッチ島〕などの文字を書きこまれ押印されていた」
    (1852年8月3日付のマームズベリー英国外務大臣あて書簡)と。
     
    ②事件の直接的原因が苦力虐待にあることを自認しながらも,中国駐在のイギリス・アメリカ領事たちは,緊密な協力のもとに苦力捕獲作戦を展開し,公然と東アジアの国際秩序を侵犯した。のみならず,広州駐在のアメリカ代理公使パーカーの如きは,中国地方当局がパウン号事件関連の苦力の無罪を宣言して放免したことに抗議し,不平等条約(望厘条約)を拠りどころにして,アメリカの法律による裁判を執擁に要求した。この事実の
    、、なか|こ,海外渡航を禁止する清国の法律及び東アジアの国際秩序を完全に無視して,欧米の価値基準・権威や法律(いわゆる国際法をも含めて)をストレートに東アジアへも貫徹させようとする欧米列強の意図が,すでに先駆的に暴露されているといえるのではなかろうか。
     

    ③イギリス・アメリカが多数の兵員を石垣島へ上陸させて苦力捕獲作戦を展開したことは,東アジアの伝統的な国際秩序に対する重大な侵犯であり,清国・日本(薩摩藩)はもちろん,当の琉球側もイギリス・アメリカの明らさまの国際秩序侵犯行為に,なんら抗議しなかったし,また抗議する能力をもちあわせていなかった。このこ
    とは,すでに伝統的な東アジア世界の国際秩序維持機能が失われつつあったことを物語っているといえよう。
     
    ④琉球側はイギリス・アメリカの武力を恐れて,苦力捕獲作戦を黙認せざるをえず,あるいはまた慣例通りに残留苦力を福州へ護送する計画を一時中止せざるをえなかったけれども,可能な限り伝統的な国際秩序に従って事を処理し,尽そうと努力した。石垣島に一年七か月にわたって残留した苦力たちに対しても,琉球側は「該難人,実に天朝の民に係るも,今は遠く海島に在り,郷を離れて日久しく,誠に憐むくきに属す」(歴代宝案,第二集,巻194)という観点から手厚い保護を加えた。この事実は,琉球の国際意識=「国際連帯」の観点を具体的に例示するものであり,今日に継承・発展させられるべき貴重な「遺産」であるといえよう。

    ⑤ロパート・パウン号の苦力たちが琉球から清国へ護送された後,最終的にどのように取り扱われたのかはよくわからない。しかし,両広総督の徐広繕が広州駐在のアメリカ公使パーカーの執勘な干渉を却けて,苦力18名のうち17名に無罪を宣告したことは注目すべきである。この事実は,徐広緒のような地方当局者でさえ,欧米資本家の非人道的な「苦力貿易」に対して憤激し,ある種の「民族主義」的な感情をもつにいたったことを示しているのではなかろうか。
     
    このような「民族主義」的感`情は,「苦力貿易」の拠点となった開港都市の民衆に共有され,ロパート・パウン号事件の真相が知れわたることによって,より一層増幅され,高揚させられた。たとえば,広州駐在のイギリス領事パウリングは,1852年7月16日付の外務大臣マームズベリあての書簡において,ロパート・パウン号で船長らを殺害し厘門へ連行されてきた苦力たちの散布する伝言のため,イギリス商社のハバナ向け苦力輸送に困難が生じている旨報告している。
     また,同年11月21日から24日にかけて展開された厘門民衆の苦力貿易反対運動は,「民族主義」的感情が爆発したもっとも具体的な例証であるといえよう。イギリス側は民衆暴動の拡大を恐れ,英艦サラマンダー(Salamander)の陸戦隊を厘門へ上陸させ,中国人4名を銃殺,5名以上を負傷させることによって,辛うじて民衆の苦力貿易反対運動を鎮圧したが,イギリスの苦力貿易そのものは重大な困難を被らざるをえなかった(HBMorse,“ThelnternationalRelationsofTheChineseEmpire''Vol、1.p、401-403)。
     
     
     
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    「甦れ!!天満の名水」大阪天満宮と関大がコラボし井戸水浄化プロジェクト、天満地ビールの計画も

    2013.8.14 12:35(1/3ページ)
    大阪天満宮の境内で採掘され、湧き出た地下水に触れる関西大の楠見晴重学長=平成23年8月(関大提供)
    大阪天満宮の境内で採掘され、湧き出た地下水に触れる関西大の楠見晴重学長=平成23年8月(関大提供)
     
     
     大阪市北区の大阪天満宮で、境内でくみ上げた地下水から「天満の名水」を作るプロジェクトが進行している。天満宮周辺では江戸~明治時代に井戸水を使った酒蔵が多く存在し、地元は井戸水の“復活”を地域活性化につなげたい考えだ。
     地盤工学を専門とする関西大の楠見晴重学長(60)も調査に協力。“神学連携”で今年秋の実用化を目指している。

    井戸水を飲料水に
     
     きっかけは平成23年春。関西の地下水を長年研究してきた楠見学長が「天満ではかつて井戸水が市民の生活用水だった。『天満の名水』として復活できたらおもしろい」と、大阪天満宮の寺井種伯(たねのり)宮司(79)に持ちかけた。
     関大は近くの天神橋筋商店街に地域の課題や活性化などを考える研究施設「リサーチアトリエ」を設置しており、プロジェクトはその活動の一環として動き出した。
     寺井宮司や楠見学長らが23年8月、業者に依頼し境内で約70メートル掘ったところ、約3万リットルの地下水が採水された。水質検査したところ、少量の鉄分とアンモニアが検出されたが、人体に影響を及ぼす水銀などは含まれておらず、浄化すれば飲料水として利用できることが判明した。

    天満はかつて酒蔵街
     大阪天満宮文化研究所研究員で、大阪大招聘(しょうへい)教授の高島幸次さん(64)によると、天満宮周辺では江戸中期から明治初期にかけ、井戸水を利用した酒蔵が約150軒あったが、地下水のくみ上げ過ぎが原因で地盤沈下が起きるなどし、昭和に入ると酒蔵はなくなったという。高島さんは「再び天満の井戸水が利用できれば、経済効果も出てくるはず」と推察する。
     大阪市健康局によると、井戸水を飲料に用いるためには、大腸菌などの病原微生物や化学物質などのほか、臭気や濁度など、水道法で定められる51項目の水質基準を全てクリアしなければならない。飲料として認められた後も、定期的な検査が必要となる。
     名水復活へのハードルは高いが、関大などは地元の悲願達成に向け、厳格な検査を重ねている。

    ゆくゆくは地ビールも
     関大では現在、境内で採取した地下水が人体に影響が出ないように万全を期すため、最終的な浄化作業を進めている。順調にいけば今年秋にも、大阪天満宮がペットボトルなどで参拝者らに飲料水として提供することができる見通しだという。
     寺井宮司は「大学と地域が連携し、街の魅力を高める理想的な取り組みだ。水を多くの方に飲んでもらい、天満宮の新たな名物にしたい」。天神橋筋商店連合会の土居年樹会長(76)は「ゆくゆくは水を使った天満の地ビールを作り、街全体を盛り上げたい」と期待している。

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    転載元: 清冽な地下水と公徳心をみんなで守り育てよう!


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  • 12/27/13--15:42: [転載]神社
  • 神社

    出雲大社(神代創建、島根県出雲市
    八坂神社(飛鳥時代創建、京都市
     
     
     神社(じんじゃ・かむやしろ)とは、神道の信仰に基づき作られた、恒設の祭祀施設。一方で神社によっては式年遷宮の習わしがあり(代表例は伊勢神宮)、必ずしも同じ社が恒設される物ではない。
     古くは社殿がなくとも「神社」とした。山、滝、岩、森、巨木など多く自然を畏れ「カミ」(=信仰対象、神)とみなしたのである。すなわち現在の社殿を伴う「神社」は、これら神々が祭祀時に御神体から移し祀られた祭殿があって、これが常設化した物だと考えられている。教会寺院といった礼拝堂や説法・布教する場とは趣が異なるのが特色である。
     
     現在では参拝用の施設の他に、結婚式の設備(斯様な近代的建築としては明治神宮外苑が顯著)などが造られることも多い。戦前にはいわゆる「国家神道」のことを単に「神社」と称した。
     
    起源
     神社の起源は、磐座(いわくら)やの住む場所である禁足地(俗に神体山)などで行われた祭事の際に臨時に建てた神籬(ひもろぎ)などの祭壇であり、元々は常設のものではなかった。元来は沖縄御嶽(ウタキ)のようなものだったと考えられる。
     古代から続く神社では現在も本殿を持たない神社があり、磐座や禁足地の山や島などの手前に拝殿を建てるのみの神社(参考:大神神社石上神宮宗像大社)、全く社殿が無い神社(那智大社飛瀧神社など)がある。神社には常に神がいるとされるようになったのは、社殿が建てられるようになってからと言われる。また常設されるようになった過程に仏教寺院の影響もあるとされる。
     
     従って古社は何らかの縁起から御神体に近い場所に社殿を構える、越木岩神社は磐座の近くと云った具合に、事が必然的に多くなる。一方で新しく神社を必要とした場合、村が発生した時、適当な場所に分霊氏神を祀ることで造営した。
     由来は簡単に一括りとできないが、縁起から選ぶ(一族発祥の地、菅家遠流の地太宰府など)、清浄な場所を選ぶ(穢れを嫌うことから。明治神宮の造営候補地など)、参拝のしやすさ(二荒山神社は山頂にあったので別に社殿を造営した)で選ぶなど、種々の便宜が図られたと想像される(古い信仰における神への畏れよりも、人々が信仰対象を必要としたからである)。
     場所により社殿を海上・山頂、現代ではビルの屋上などに祀ることもある。
     
    施設、設備
    神社境内図
     
     神社の周りには鎮守の杜と呼ばれる森林があるのが一般的である(都市部などでないこともある)。御神木といわれる名木には、注連縄を結ばれているものもある。神社の入口には、境内と俗界の境界を示す鳥居があり、社殿まで参道が通じる。参道のそばには身を清めるための手水舎(手洗所)、神社を管理する社務所などがある。大きな神社では神池神橋がある場合もある。
     社殿は一般に本殿(神殿)・拝殿からなる。人々が普段参拝するときに目にするのは拝殿で、神体が安置される本殿は拝殿の奥にある。本殿と拝殿の間に参詣者が幣帛を供えるための幣殿が設置されていることもある。
     神社の敷地(境内)には、その神社の祭神に関係のある神や元々その土地に祀られていた神を祀る摂社や、それ以外の神を祀る末社があり、両者をあわせて摂末社と総称する。境内の外に摂末社がある場合もあり、それは境外社と呼ばれる。
     
     また、神仏習合が始まる奈良時代には神社の境内に神を供養する神宮寺(別当寺、宮寺)が建てられるようになり、それ以後、神社内に寺院が建てられることもあったが、明治初期の明治政府による神仏判然令(神仏分離令)により、神社と寺院は分離され、神社境内にあった五重塔や仏堂などは撤去され、僧侶と神官も区別された。

    建物

     概ね宮大工による木造の日本式建築である。建築技術の変化や法律上の問題(耐震強度や防火)により、伝統的建築法だけではなく、一部で鉄筋コンクリート造が増えている(このことは寺やその修復時にもいえる)。前述のようにビルの中にある神社もあるので、必ず建物が日本風というわけではない。ただし、神体が安置される本殿の形は日本式建築である。
     
     神社は周囲が森で囲まれていることも多く、夜間は警備の目が行き届かないところもあり、放火事件も発生している。そのため、一部の神社では警備会社と契約して機械警備を行っている。防火や盗賊除けの神が鎮座する神社に警備会社のステッカーが貼ってあるのが見かけられることも多い。

    神社の付属施設 

     本殿と神殿は別とされることもあるが通常は同一の物。絵馬は後世に馬の代わりとして奉納されたものである事から、絵馬殿のように時代によって共通な常設施設は変化するとも考えられている。摂末社は神社の規模によって存在しない。また本来の祭神(その土地の氏神)が祀られて居る事もある。
    その他の共通施設も規模による所もあるので、以上は一定の目安である。
     
     
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    転載元: 馬未栄会(大阪市立今里小学校)同窓会員


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  • 12/27/13--15:42: [転載]神社
  • 神社

    出雲大社(神代創建、島根県出雲市
    八坂神社(飛鳥時代創建、京都市
     
     
     神社(じんじゃ・かむやしろ)とは、神道の信仰に基づき作られた、恒設の祭祀施設。一方で神社によっては式年遷宮の習わしがあり(代表例は伊勢神宮)、必ずしも同じ社が恒設される物ではない。
     古くは社殿がなくとも「神社」とした。山、滝、岩、森、巨木など多く自然を畏れ「カミ」(=信仰対象、神)とみなしたのである。すなわち現在の社殿を伴う「神社」は、これら神々が祭祀時に御神体から移し祀られた祭殿があって、これが常設化した物だと考えられている。教会寺院といった礼拝堂や説法・布教する場とは趣が異なるのが特色である。
     
     現在では参拝用の施設の他に、結婚式の設備(斯様な近代的建築としては明治神宮外苑が顯著)などが造られることも多い。戦前にはいわゆる「国家神道」のことを単に「神社」と称した。
     
    起源
     神社の起源は、磐座(いわくら)やの住む場所である禁足地(俗に神体山)などで行われた祭事の際に臨時に建てた神籬(ひもろぎ)などの祭壇であり、元々は常設のものではなかった。元来は沖縄御嶽(ウタキ)のようなものだったと考えられる。
     古代から続く神社では現在も本殿を持たない神社があり、磐座や禁足地の山や島などの手前に拝殿を建てるのみの神社(参考:大神神社石上神宮宗像大社)、全く社殿が無い神社(那智大社飛瀧神社など)がある。神社には常に神がいるとされるようになったのは、社殿が建てられるようになってからと言われる。また常設されるようになった過程に仏教寺院の影響もあるとされる。
     
     従って古社は何らかの縁起から御神体に近い場所に社殿を構える、越木岩神社は磐座の近くと云った具合に、事が必然的に多くなる。一方で新しく神社を必要とした場合、村が発生した時、適当な場所に分霊氏神を祀ることで造営した。
     由来は簡単に一括りとできないが、縁起から選ぶ(一族発祥の地、菅家遠流の地太宰府など)、清浄な場所を選ぶ(穢れを嫌うことから。明治神宮の造営候補地など)、参拝のしやすさ(二荒山神社は山頂にあったので別に社殿を造営した)で選ぶなど、種々の便宜が図られたと想像される(古い信仰における神への畏れよりも、人々が信仰対象を必要としたからである)。
     場所により社殿を海上・山頂、現代ではビルの屋上などに祀ることもある。
     
    施設、設備
    神社境内図
     
     神社の周りには鎮守の杜と呼ばれる森林があるのが一般的である(都市部などでないこともある)。御神木といわれる名木には、注連縄を結ばれているものもある。神社の入口には、境内と俗界の境界を示す鳥居があり、社殿まで参道が通じる。参道のそばには身を清めるための手水舎(手洗所)、神社を管理する社務所などがある。大きな神社では神池神橋がある場合もある。
     社殿は一般に本殿(神殿)・拝殿からなる。人々が普段参拝するときに目にするのは拝殿で、神体が安置される本殿は拝殿の奥にある。本殿と拝殿の間に参詣者が幣帛を供えるための幣殿が設置されていることもある。
     神社の敷地(境内)には、その神社の祭神に関係のある神や元々その土地に祀られていた神を祀る摂社や、それ以外の神を祀る末社があり、両者をあわせて摂末社と総称する。境内の外に摂末社がある場合もあり、それは境外社と呼ばれる。
     
     また、神仏習合が始まる奈良時代には神社の境内に神を供養する神宮寺(別当寺、宮寺)が建てられるようになり、それ以後、神社内に寺院が建てられることもあったが、明治初期の明治政府による神仏判然令(神仏分離令)により、神社と寺院は分離され、神社境内にあった五重塔や仏堂などは撤去され、僧侶と神官も区別された。

    建物

     概ね宮大工による木造の日本式建築である。建築技術の変化や法律上の問題(耐震強度や防火)により、伝統的建築法だけではなく、一部で鉄筋コンクリート造が増えている(このことは寺やその修復時にもいえる)。前述のようにビルの中にある神社もあるので、必ず建物が日本風というわけではない。ただし、神体が安置される本殿の形は日本式建築である。
     
     神社は周囲が森で囲まれていることも多く、夜間は警備の目が行き届かないところもあり、放火事件も発生している。そのため、一部の神社では警備会社と契約して機械警備を行っている。防火や盗賊除けの神が鎮座する神社に警備会社のステッカーが貼ってあるのが見かけられることも多い。

    神社の付属施設 

     本殿と神殿は別とされることもあるが通常は同一の物。絵馬は後世に馬の代わりとして奉納されたものである事から、絵馬殿のように時代によって共通な常設施設は変化するとも考えられている。摂末社は神社の規模によって存在しない。また本来の祭神(その土地の氏神)が祀られて居る事もある。
    その他の共通施設も規模による所もあるので、以上は一定の目安である。
     
     
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    転載元: 馬未栄会(大阪市立今里小学校)同窓会員


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  • 12/27/13--16:20: [転載]神社
  • 神社

    出雲大社(神代創建、島根県出雲市
    八坂神社(飛鳥時代創建、京都市
     
     
     神社(じんじゃ・かむやしろ)とは、神道の信仰に基づき作られた、恒設の祭祀施設。一方で神社によっては式年遷宮の習わしがあり(代表例は伊勢神宮)、必ずしも同じ社が恒設される物ではない。
     古くは社殿がなくとも「神社」とした。山、滝、岩、森、巨木など多く自然を畏れ「カミ」(=信仰対象、神)とみなしたのである。すなわち現在の社殿を伴う「神社」は、これら神々が祭祀時に御神体から移し祀られた祭殿があって、これが常設化した物だと考えられている。教会寺院といった礼拝堂や説法・布教する場とは趣が異なるのが特色である。
     
     現在では参拝用の施設の他に、結婚式の設備(斯様な近代的建築としては明治神宮外苑が顯著)などが造られることも多い。戦前にはいわゆる「国家神道」のことを単に「神社」と称した。
     
    起源
     神社の起源は、磐座(いわくら)やの住む場所である禁足地(俗に神体山)などで行われた祭事の際に臨時に建てた神籬(ひもろぎ)などの祭壇であり、元々は常設のものではなかった。元来は沖縄御嶽(ウタキ)のようなものだったと考えられる。
     古代から続く神社では現在も本殿を持たない神社があり、磐座や禁足地の山や島などの手前に拝殿を建てるのみの神社(参考:大神神社石上神宮宗像大社)、全く社殿が無い神社(那智大社飛瀧神社など)がある。神社には常に神がいるとされるようになったのは、社殿が建てられるようになってからと言われる。また常設されるようになった過程に仏教寺院の影響もあるとされる。
     
     従って古社は何らかの縁起から御神体に近い場所に社殿を構える、越木岩神社は磐座の近くと云った具合に、事が必然的に多くなる。一方で新しく神社を必要とした場合、村が発生した時、適当な場所に分霊氏神を祀ることで造営した。
     由来は簡単に一括りとできないが、縁起から選ぶ(一族発祥の地、菅家遠流の地太宰府など)、清浄な場所を選ぶ(穢れを嫌うことから。明治神宮の造営候補地など)、参拝のしやすさ(二荒山神社は山頂にあったので別に社殿を造営した)で選ぶなど、種々の便宜が図られたと想像される(古い信仰における神への畏れよりも、人々が信仰対象を必要としたからである)。
     場所により社殿を海上・山頂、現代ではビルの屋上などに祀ることもある。
     
    施設、設備
    神社境内図
     
     神社の周りには鎮守の杜と呼ばれる森林があるのが一般的である(都市部などでないこともある)。御神木といわれる名木には、注連縄を結ばれているものもある。神社の入口には、境内と俗界の境界を示す鳥居があり、社殿まで参道が通じる。参道のそばには身を清めるための手水舎(手洗所)、神社を管理する社務所などがある。大きな神社では神池神橋がある場合もある。
     社殿は一般に本殿(神殿)・拝殿からなる。人々が普段参拝するときに目にするのは拝殿で、神体が安置される本殿は拝殿の奥にある。本殿と拝殿の間に参詣者が幣帛を供えるための幣殿が設置されていることもある。
     神社の敷地(境内)には、その神社の祭神に関係のある神や元々その土地に祀られていた神を祀る摂社や、それ以外の神を祀る末社があり、両者をあわせて摂末社と総称する。境内の外に摂末社がある場合もあり、それは境外社と呼ばれる。
     
     また、神仏習合が始まる奈良時代には神社の境内に神を供養する神宮寺(別当寺、宮寺)が建てられるようになり、それ以後、神社内に寺院が建てられることもあったが、明治初期の明治政府による神仏判然令(神仏分離令)により、神社と寺院は分離され、神社境内にあった五重塔や仏堂などは撤去され、僧侶と神官も区別された。

    建物

     概ね宮大工による木造の日本式建築である。建築技術の変化や法律上の問題(耐震強度や防火)により、伝統的建築法だけではなく、一部で鉄筋コンクリート造が増えている(このことは寺やその修復時にもいえる)。前述のようにビルの中にある神社もあるので、必ず建物が日本風というわけではない。ただし、神体が安置される本殿の形は日本式建築である。
     
     神社は周囲が森で囲まれていることも多く、夜間は警備の目が行き届かないところもあり、放火事件も発生している。そのため、一部の神社では警備会社と契約して機械警備を行っている。防火や盗賊除けの神が鎮座する神社に警備会社のステッカーが貼ってあるのが見かけられることも多い。

    神社の付属施設 

     本殿と神殿は別とされることもあるが通常は同一の物。絵馬は後世に馬の代わりとして奉納されたものである事から、絵馬殿のように時代によって共通な常設施設は変化するとも考えられている。摂末社は神社の規模によって存在しない。また本来の祭神(その土地の氏神)が祀られて居る事もある。
    その他の共通施設も規模による所もあるので、以上は一定の目安である。
     
     
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    転載元: 馬未栄会(大阪市立今里小学校)同窓会員


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    転載元: 明るく元気にほがらかに


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    セミナー
     土壌汚染対策の最新情報 ~土地環境ビジネスの新潮流~
     
    開催主旨
     
     土壌汚染対策法は、平成15年2月に施行され、平成22年4月に改正法が施行され、汚染土壌の管理が強化され、現在に至っています。
     今回のセミナーでは、汚染土地取引のお詳しい明海大学准教授の本間勝氏に、環境管理と土地力活用の視点から土地環境ビジネスの新潮流についてご講演いただいた後、大阪府の土壌汚染対策の行政対応や、実際に土壌汚染に関わっている企業者からの事例を紹介していただきます。
     土壌汚染対策の最新の情報を学び、新しい土壌汚染ビジネスを展望したくご案内いたします
     
    開催日時
     平成26124日(金) 14001650
     
    会場 
    おおさかATCグリーンエコプラザ内 ビオトーププラザ
    (大阪市住之江区南港北2-1-10 ATC-ITM棟 11F
          http://www.ecoplaza.gr.jp/
     
     
     
    【講演1】
    演題:土壌環境政策を例に考える 土地環境ビジネスの新潮流
      ~環境管理と土地力判断の視点から~
     講師:明海大学 不動産学部 准教授 本間 勝 氏
     
    【講演2】
    演題:大阪府の土壌汚染対策制度と現状
     講師:大阪府環境農林水産部 環境管理室 環境保全課
          化学物質対策グループ 総括主査 岩井田 武志 氏
     
    【講演3】
    演題:汚染調査でなぜ、流行らない?蛍光X線分析 
        -次のターゲットは土木工事の環境調査だ!!-
     講師:エヌエス環境株式会社 名古屋支店 
                  新城事務所 所長 岸岡 稚青 氏
     
    16:2 5~16:50【質疑応答・意見交換】
     
    ■主催:おおさかATCグリーンエコプラザ実行委員会
           (大阪市、ATC、日本経済新聞社)
     
    ■共催:大阪 水・環境ソリューション機構
            http://www.owesa.jp/
         
     
     
    ■受講料:無料
     
     
     申し込みは↓からお願いします
     

    おおさかATCグリーンエコプラザでは、最新の環境問題に関するセミナーを開催しています。現在募集中のセミナー↓

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    下記は、セミナーと直接関係がありません

    大阪 水・環境ソリューション機構(OWESA)の取組み

     

    大阪 水・環境ソリューション機構の案件形成・事業化支援

    • 大阪市・府と海外の地方政府との都市間外交や技術交流などを通じて、現地の水・環境に関する課題を見出し、新規案件の形成に努めます。
    • 機構の持つ案件形成に関する情報は、必要に応じて経済団体を通じて民間企業へ発信します。
    • 民間企業から要請のあった案件については、内容を検討した上で、官民連携の検討チームに関与し、協働して海外の水・環境に関する課題の解決策を提案をします。
    • 機構は、検討チームの提案の事業化に向けて、相手国政府や日本の政府系機関(国土交通省、経済産業省、国際協力機構等)に対して事業実施の要請を行うなどの支援を行います。
    (案件形成に向けた官民連携調査)
     大阪市では、上水道、下水道、廃棄物の3分野で国が実施する官民連携による事業化のための支援スキームの採択を受け、以下のような官民連携チームのメンバーで案件形成に向けて調査を実施しています。
    平成24年度調査案件
    ベトナム国
     
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    上水道 ホーチミン市給水改善計画調査(JICA公募案件)
    (メンバー)
    大阪市水道局、東洋エンジニアリング(株)、パナソニック環境エンジニアリング(株)、(株)日水コン、プライスウォーターハウスクーパース(株)
     ⇒詳細は、大阪市水道局のHP
    下水道 ベトナムにおけるPPP手法による都市浸水対策事業導入可能性検討業務(国土交通省公募案件)
    (メンバー)
    (株)オリエンタルコンサルタンツ、パシフィックコンサルタンツ(株)、大阪市建設局、(一財)都市技術センター 他
     ⇒詳細は、大阪市建設局のHP
    廃棄物 ベトナム・ホーチミン市における固形廃棄物の統合型エネルギー回収事業(環境省公募案件)
    (メンバー)
    (株)日立造船、(株)エックス都市研究所、大阪市環境局、(公財)地球環境センター
    ベトナム国3R・廃棄物管理分野における協力支援事業 (環境省公募案件)
    (メンバー)
    (公財)地球環境戦略研究機関、(公財)地球環境センター、八千代エンジニヤリング(株)、大阪市環境局
     
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    ミャンマー国
     
     
     
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    下水道 ミャンマー国下水道整備計画等策定業務(国土交通省公募案件)
    (メンバー)
    (株)日水コン、大阪市建設局、(一財)都市技術センター
     ⇒詳細は、大阪市建設局のHP

    ※平成23年度の調査案件はこちら

    ■ 海外プロモーション

    • 大阪市・府が過去に水・環境問題を克服してきた経験やノウハウとともに、大阪・関西企業の高い技術力を海外に向けてホームページ、パンフレットなどにより情報発信します。
    • 民間企業に対して、国際見本市などへの共同出展や国内外でのセミナー開催等を通じて、海外での受注につながるようなビジネスマッチングの機会を提供します。
    • 海外からの研修や視察の受入を実施します。
     
     
     
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    大阪府土壌汚染調査・対策の手引き等

    【パンフレット】
    「大阪府の土壌汚染対策制度 土壌汚染対策法と大阪府生活環境の保全等に関する条例」(平成25年4月)
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    上記の25物質に、ダイオキシン類を追加したもの
    (管理有害物質)
    調査契機
    ,砒素,トリクロロエチレンなど25物質 
    (特定有害物質)
    有害物質使用特定施設の使用廃止
    (法第3条)
    土壌汚染による健康被害が生ずるおそれがある場合(法第5条)
    有害物質使用特定施設等を設置している工場敷地での土地の形質変更
    (条例第81条の6)
    有害物質使用届出施設等の使用廃止
    (条例第81条の4)
    調査対象物質
    3,000㎡以上の土地の形質の変更(法第4条第1項、条例第81条の5)で、土地の利用履歴調査(条例第81条の5)等により汚染のおそれがあると判明した場合
     
     
     
     
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    Ms Photography 結婚式の写真撮影
    [大阪、京都、和歌山、神戸、奈良の関西から東京、名古屋まで全国出張]
    結婚式 / ライヴ写真 / マタニティフォト / エンゲージフォト / 七五三 / 各種撮影 /
    Web : http://www.mainstreetartco.com/
     

    転載元: 水.土壌.心の汚染をカメラを通して考え真実を伝える


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