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Channel: 今里から美しい日本の朝ぼらけ
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[転載]JNC 日本チッソの朝鮮への進出と貢献

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JNC 日本チッソの朝鮮への進出
朝鮮窒素肥料 興南工場
 
 野口は水俣工場、延岡工場を拡張しながら、更に朝鮮でも大規模硫安製造業の建設を行った。1925年6月、朝鮮総督府から蓋馬高原鴨緑江支流の赴戦江の水利権を得て、20万kWの発電所を建設した。これにより1926年1月に朝鮮水電株式会社、翌1927年5月には、朝鮮窒素肥料株式会社が設立された。1933年5月には長津江、1937年1月には虚川江の電源開発に着手、合計12箇所の発電所で87万kWの電源を確保した。
 これら蓋馬高原に建設したダムによる大電力を利用して、ダム群の日本海側にあたる咸鏡南道咸興郡には興南、永安、本宮の3工場が建設された。これらの工場では主に合成アンモニアを原料にした硫安、硫燐安などの肥料が製造されたが、他にも油脂、石炭低温乾留、アルカリ、カーバイド、火薬、金属精錬など多角的な化学工業が展開された。
 興南地区には、朝鮮窒素肥料など10社を超える子会社、関連会社が設立され、面積は1980万m2、従業員は4万5千人、家族を含めた総人口は18万人に達していた。設備能力では水電解設備は世界第1位、硫安は年産能力50万tで世界第3位と、世界屈指の化学コンビナートに成長した。これらの事業の中心は水俣の本社工場とともに、朝鮮の興南地区に置かれた。

終戦までの事業拡大

水豊ダム
 
 更なる事業の拡大のため、豊富な水源を有する鴨緑江本流の電源開発に取り掛かり、満州国政府、朝鮮総督府との共通事業として、七つのダムによる165万kWの発電計画を策定した。1937年8月には水豊発電所の建設に着手したが、堰堤900m、高さ106m、貯水湖の広さ345km2と、霞ヶ浦の2倍、人造湖としては当時世界第2位の規模であった。水豊発電所の70万kW設備は1944年には殆ど完成していたが、第2期70万kWの設備は工事半ばにして敗戦を迎えた。
 鴨緑江の電源開発と平行して、朝鮮の灰岩工場で石炭直接液化によるガソリンエタノール、興南地区の竜興工場で航空機燃料のイソオクタン水豊ダム下流の青水工場でカーバイド、アセチレンブラック、南山工場で合成ゴム、吉林では人造石油の製造にも取り組みが続いた。これらの他にも、中国の華北台湾海南島スマトラジャワマレー半島、シンガポールなどでも製造・電源開発・鉱石採掘などの事業を試みたが、いずれも敗戦により事業半ばに終わった。主要拠点である朝鮮の資産を喪失し、GHQ財閥解体令を待たずに日窒コンツェルンは実質的に瓦解した。

日窒コンツェルンの特徴

野口が日窒コンツェルンを成長させた手法にはいくつかの特徴があった。
 
 一つ目は、当時の先進技術を活用したことである。 当時最新の化学工業技術を特許と共にヨーロッパから導入した。当時の野口は希少な知識を有する技術者であった(当時東京帝国大学電気工学科の卒業生は1~4人、野口の年次に初めて10人を越す在籍者となった)。また事業確立のためフランク・カローの特許を入手する際には、三井古河などの既存大財閥との競争になったが、シーメンスに勤めた人脈を最大限に活用できたことも大きかった。シーメンスとの友好関係はその後も変わらず、ドイツからの技術導入とシーメンスの日本での発電事業・電力応用設備市場拡大の相互依存関係を続けた。
 
 二つ目は、電気化学の工業化事業モデルを確立したことである。 電気化学では、ダム建設による水力発電により電力を確保し、大量に供給される電力を利用して電気化学工場で肥料火薬を製造する。電力が安いほど競争力が得られることから、大規模化のメリットを享受しやすい構造を有しており、朝鮮半島北部の豊富な水資源、特に鴨緑江に注目して朝鮮へ進出することで、装置産業としての効率を上げることができた。
 
 三つ目は、政商としての側面である。 窒素肥料は近代化の遅れた日本の農村ではあまり需要は伸びず、日露戦争の反動不況から経営危機に直面したが、第一次世界大戦の勃発により火薬の原料となる硫安チリ硝石の需要急増で大きな利益を得ることができた。また当時朝鮮総督宇垣一成や軍関係者は朝鮮半島の軍事工業基地化を目指しており、日窒には好意的であり、様々な融資を引き出すことができた。更に水豊ダム建設などの巨大プロジェクトにおいては、満州国政府、朝鮮総督府との国策的な共同事業として事業資金についても便宜が図られるなどした。

沿革

  • 1906年(明治39年)1月12日 曾木電気
  • 1907年日本カーバイド商会設立 、 曾木発電所第一期工事完成(発電機1台800kW)
  • 1908年 アドルフ・フランクニコデム・カロー両名の石灰窒素製造に関する日本帝国における特許実施権を買収 、日本カーバイド商会と合併、社名を日本窒素肥料と改める
  • 1909年(明治42年)中橋徳五郎取締役会長、野口遵専務取締役、藤山常一常務取締役に就任。曾木発電所第二期工事完成1909年(明治42年)11月 フランク・カロー式石灰窒素製造法による肥料工場を水俣に建設、石灰窒素の製造研究着手
  • 1912年(明治45年) 常務取締役 藤山常一辞任
  • 1914年(大正3年) 鏡工場竣工、石灰窒素、硫安の製造開始
  • 1915年この頃第一次世界大戦の影響で、肥料価格暴騰
  • 1916年水俣工場の拡張、新工場の建設開始 、 内大臣川発電所竣工、鏡工場に送電開始
  • 1917年(大正6年)1 川内川発電所一部完成、水俣新工場への送電開始
  • 1921年(大正10年) カザレー式アンモニア合成法特許実施権購入の契約
  • 1923年(大正12年)1 延岡工場製造開始
  • 1926年(大正15年) 朝鮮水電(朝鮮咸鏡南道赴戦江の水利を利用した発電事業) 、信越窒素肥料設立(工場を直江津におき、九州鏡工場の肥料製造装置を移設)
  • 1927年(昭和2年) 水俣新工場(カザレー式)製造運転開始 、 朝鮮窒素肥料創立 、朝鮮窒素肥料と朝鮮水力電気を設立し、朝鮮の興南(現・北朝鮮咸鏡南道咸興市)を始め、朝鮮半島各地に大規模化学コンビナートやダム、水力発電所を建設する。
  • 1928年(昭和3年) 朝鮮窒素 西湖津工場を興南工場と改称。
  • 1929年日本ベンベルグ絹糸設立 、朝鮮窒素肥料 興南工場第1期工事完成 、赴戦江水電第1期工事完成
  • 1930年朝鮮窒素肥料が朝鮮水電を合併 、日本窒素火薬を設立
  • 1931年(昭和6年) 延岡アンモニア絹糸株式会社設立 、 昭和天皇水俣工場に行幸
  • 1933年(昭和8年) 旭ベンベルグ絹糸設立 、長津江水電設立
  • 1934年朝鮮総督府の電力統制計画に基づき、長津江水電の発電電力を平壌に送電する電気事業経営許可 、朝鮮送電設立 、日本マグネシウム金属
  • 1935年(昭和10年)朝鮮石炭工業設立 、大豆化学工業設立 、 日窒鉱業設立 、 朝鮮窒素火薬設立 、朝鮮石油設立 、昭和天皇が旭ベンベルグ絹糸延岡工場に行幸 、朝鮮ビルディング設立
  • 1936年(昭和11年) 日窒宝石設立 、 朝鮮窒素肥料 本宮カーバイド、石灰窒素工場の工事完成、一部運転開始 、 長津江水電第1,第2発電所発電開始
  • 1937年(昭和12年) 日窒証券設立
  • 1942年社長野口遵 勲一等瑞宝章
  • 1943年(昭和18年) 日窒火薬を合併し、社名を日窒化学工業に変更
  • 1944年代表取締役社長 野口遵死去 、 水豊ダム、水豊発電所が竣工
  • 1945年(昭和20年) 日窒航空工業(航空機用強化木製造)
 

咸興市

咸興市
位置
DPRK2006 Hamnam-Hamhung.PNG
함흥시
咸興市
ハムフンシ
かんこうし
Hamhŭng-si
咸興市(ハムフンし)は、朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道の道都。李氏朝鮮発祥の地である。平壌とともに冷麺の本場として有名で、盛岡冷麺の創始者である在日1世の青木輝人(朝鮮名ヤン・ヨンチョル:양용철)も咸興出身である。
咸興市に属する沿海部の興南区域は、化学工業を中心とする工業都市・港湾都市である。
人口は70万9730人(1993年)、87万4000人(2005年)。
 
地理
咸興市の衛星写真
 
 日本海に面する咸興平野に位置する。城川江が市内を貫通する。北の蓋馬高原への交通の要地であり、農産物の集散地となっている。咸興湾に面した興南には巨大ながある。

歴史

 古代は高句麗の領域であり、ついで渤海国の領域となった。渤海の五京の一つ、南京南海府の比定地の一つである。
 渤海国滅亡後は、長らく女真族の領域となり、高麗モンゴル帝国との争奪の場となった。最終的には高麗の支配下に入り、1356年に咸州が置かれた。李氏朝鮮の建国者である李成桂は晩年にこの地に隠居したため、彼にまつわる遺跡も多い。李氏朝鮮時代、咸興は東北辺境部の中心地であった(咸鏡道の「咸」は咸興からとられている)。
咸興の周囲はもともと農村だったが、日本統治時代の1920年代は蓋馬高原で電源開発が行われるとともに、咸興中心部の南約10kmの海岸にある興南に工業地帯が建設された。
 朝鮮戦争中、咸興・興南は国連軍艦砲射撃空爆により破壊されたが、後にソ連東ドイツなどの東側諸国の援助もあり復興し、発展した。
 咸興市は、1960年から1967年の間直轄市に昇格した事もある。

年表

  • 2005年- 興南市がふたたび咸興市に編入され、興南区域となる。
 

新興鉄道

 新興鉄道(しんこうてつどう)は、日本統治時代朝鮮半島に存在した鉄道会社である。
ここでは、1945年7月当時に所有していた路線のみを記載する。なお、現在の内容については新興線長津線西湖線の項目を参照。

路線

1945年(昭和20年)時点

関連項目

 

朝鮮石油

朝鮮石油株式会社(ちょうせんせきゆ)は、日本統治時代朝鮮半島に存在した石油会社である。本社の所在地は京城府(現・韓国ソウル)、製油所の所在地は現在の北朝鮮元山(ウォンサン)
 
設立
 1934年昭和9年)7月1日に石油の民間保有や石油業の振興などを目的とした石油業法が施工された。統治下の朝鮮においても同様に施工され新会社設立の気運が高まった。1935年(昭和10年)6月25日に朝鮮窒素肥料社長野口遵日本石油社長橋本圭三郎が発起人となり、京城府に株式会社朝鮮石油(資本金1000万円,四分の一払込み)が設立された。
 株式20万株のうち17万株は発起人(朝鮮窒素肥料3万3千株・日本石油3万株)及び賛成人(東洋拓殖2万株・三井物産1万株・住友本社,浅野物産,日本鉱業ほか計15000万株)で受け持った。残り3万株は公募となったが応募は60倍以上となった。
石油業法と相まって国策企業に近いものであるため、朝鮮内に置いては様々な点で優遇されることになる。

製油所および販売、精製設備

 製油所は日本海側に面する咸鏡南道元山府浦下洞(現・江原道元山市場村洞)に建設され1936年(昭和11年)9月に完成した。輸入した外国原油を用いて揮発油、灯油軽油重油パラフィンなどを製造。
 朝鮮の石油市場は大正末期まで中国、満州などと同様に外国企業3社スタンダードシェルテキサコで独占されていたが、昭和初期より日本石油が市場の開拓をはじめ販売店および特約店を設けて外国企業に対抗していた。 日本石油は朝鮮石油設立後にこれら販売地盤を朝鮮石油に無償譲渡。朝鮮唯一の製油所で製造された商品は石油業法にて保護され外国企業製品にかわり朝鮮全土に普及した。
 
 
 

転載元: アジア・太平洋貿易振興・環境保全・環境産業振興・歴史認識


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