住友金属鉱山の沿革
- 1590年(天正18年) - 蘇我理右衛門が京都に銅製錬・銅細工の泉屋を開業。
- 1691年(元禄4年) - 別子銅山の採掘権を獲得し、採掘を開始。
- 1905年(明治38年) - 四阪島に銅製錬所を設置(現・四阪工場)。
- 1927年(昭和2年)7月 - 住友合資会社から別子鉱業所が分離し、住友別子鉱山株式会社が発足。
- 1937年(昭和12年)6月21日 - 住友別子鉱山と住友炭礦株式会社が合併し、住友鉱業株式会社が発足。
- 1946年(昭和21年)1月29日 - 井華鉱業株式会社に社名変更。
- 1950年(昭和25年)3月1日 - 井華鉱業株式会社の金属部門が独立し、別子鉱業株式会社が発足。
- 1952年(昭和27年)6月 - 住友金属鉱山株式会社に社名変更。
- 1956年(昭和31年)9月 - 株式会社日向製錬所を設立。
- 1964年(昭和39年)7月 - 住鉱アイ・エス・ピー株式会社を設立。
- 1965年(昭和40年)8月 - 中央研究所(現・市川研究所)開設。
- 1966年(昭和41年)4月 - 住鉱アイ・エス・ピー播磨製錬所(現・播磨事業所)操業開始。
- 1967年(昭和42年)9月 - 青梅工場(電子事業本部)操業開始。
- 1971年(昭和46年)2月 - 東予工場操業開始。
- 1973年(昭和48年)3月 - 別子銅山閉山。
- 1973年(昭和48年)5月 - 鴻之舞鉱山閉山。
- 1974年(昭和49年)6月 - 国富事業所操業開始。
- 1975年(昭和50年)12月 - 土呂久砒素公害の原因企業として宮崎地裁延岡支部に提訴される。以後、1978年(昭和53年)にかけて第1陣から4陣まで計81人が提訴。控訴審で会社側敗訴し上告。最高裁において、1990年(平成2年)に原告と和解条項が成立。
- 1977年(昭和52年)2月 - 新居浜研究所開設。
- 1977年(昭和52年)2月1日 - 鉄道事業から撤退。
- 1978年(昭和53年) - 佐々連鉱山閉山。
- 1980年(昭和55年)10月 - 住鉱アイ・エス・ピーを吸収合併、播磨事業所継承。
- 1983年(昭和58年)4月 - 菱刈鉱山開坑。
- 1999年(平成11年)9月 - 全額出資する株式会社ジェー・シー・オー(JCO)において東海村JCO臨界事故が起こる。
- 2002年(平成14年)7月 - 三井金属鉱業株式会社と亜鉛製錬事業で提携。
- 2003年(平成15年)2月 - 同和鉱業株式会社と硫酸事業で提携。
- 2005年(平成17年)4月 - Coral Bay Nickel Corporation商業生産開始。
- 2006年(平成18年)2月 - ポゴ金鉱山生産開始。
- 2010年(平成22年)10月 - 四阪工場を分社化し四阪製錬所を設立。
- 2013年(平成24年)7月 - リードフレーム事業を日立金属(旧・日立電線)と経営統合。日立金属の伸銅事業子会社に資本参加し折半出資会社化。
1590年〜 銅製錬の始まり 別子銅山の稼業(江戸時代)
銅製錬の始まり
住友の銅事業は1590年、泉屋と称して、京都で銅吹きと銅細工を開業したことに始まります。泉屋では全国から集めた原料を製錬していましたが、このとき日本で初めて、南蛮吹きと称する銀・銅分離の技術を完成させました。この技術が開発される前は、銅が銀を含んだまま輸出され、その分だけ利益を失っていたのです。住友はこのように最先端の技術開発を行うことで大きな利益を上げて事業の基盤を固めていきました。
別子開坑
1690年、愛媛県の赤石山系の南斜面で、銅鉱石の大露頭が見つかりました。この銅山こそが、その後283年間にわたり操業を続け、住友の発展を大きく支えた「別子銅山」です。住友はこの別子銅山の開坑により、銅の製錬事業から資源事業へと軸足を移すことになります。