「水豊ダム素描」(その1)
ダムマニア - Dam Mania -
水豊ダム
1937年から1944にかけ、日本国が中国(満州)に建設したダム。
重力式コンクリートダムとしては、世界最大級だった。
建設開始から4年後の1941年には、一部水力発電を開始、完成後は最大出力70万kwとなった。
このダムで発電された電力は、朝鮮及び満州に送電されていた。
重力式コンクリートダムとしては、世界最大級だった。
建設開始から4年後の1941年には、一部水力発電を開始、完成後は最大出力70万kwとなった。
このダムで発電された電力は、朝鮮及び満州に送電されていた。
時が経ち、朝鮮戦争。1952年6月23日、この水豊ダムは攻撃目標にされた。
米軍機が次々に空爆をおこなったが、決壊させることはできなかった。
米軍機が次々に空爆をおこなったが、決壊させることはできなかった。
ダム建設のため、鴨緑江を堰き止めている様子。 日本の旗と、満州の旗が見える。 |
対岸まで約900m。 上の写真のものが連なっているのであろうか。 |
徐々に鴨緑江が堰き止められ、 ダムの基礎ができてきた。 |
堤体の建設。 |
建設中のダムの下を河川が流れている。 |
下流より堤体を眺める。 |
着々と高さを増してきた。 右の建物は発電所らしい。 |
建設中だが、よく見ると越流してますね。 |
迫力の写真。 建設中のダムの堤体越流。 |
ほぼ完成であろうか。 白く見える筋は放流された水? |
白さがまぶしい。 |
クレストゲートからの放流。 白黒写真でも迫力を感じる。 |
発電機。 |
下流左岸川より堤体を眺める。 |
引いたアングルで堤体を眺める。右に発電所が見える。 |
天端より下流を眺める? |
京義線定州駅を出た支線平北鉄道の列車は、寂寥々たる境域の風景の果て、この列車が125粁(キロメートル)走りこんだ奥に「日本がなした世紀の偉業」といふべき「水豊ダム」が存在し、その世界最大級のダムは、殆んど完成を見せて、大東亜戦下、科学日本の素晴らしい力量を誇示して、兵站(へいたん)半島に負荷された決戦生産に、大いなる力を効してゐるのである。
定州駅を出て、列車はいよいよ国境の山奥く入つて午後「水豊」に着いた。踏み堅められた路の雪を靴の下にキユツキユツと鳴らしながら「水豊ダム建設事務所」へ歩く。晴れ渡つた冬の日の風は、凍へついた雪の肌に定着させられて、あたりの枯草一つさゆらがぬ中で、寒さはキンキン冴へかへつてゐた。僕はスチームのきいた事務所に走り込んだ。さうして八島所長にあつた。
平安北道(ピョンアンプクト)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)北西部に位置する行政区
定州市(チョンジュし)は、朝鮮民主主義人民共和国平安北道に属する市。
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昭和16年頃の定州市内図 |
「この寒さの中に、よくいらつしやいましたね」
「冬のダム、そこには凛烈(りんれつ)なる示唆があるのではないかと思ひまして-」
僕は厳粛に来意を告げた。
「冬のダム、そこには凛烈(りんれつ)なる示唆があるのではないかと思ひまして-」
僕は厳粛に来意を告げた。
山深く入り来つて遥かに思ふ南溟(なんめい)の天地、さうした会話の瞬間にもラバウルには執拗極まる散の反攻が繰返へされてゐるのであらう。またブーゲンビル島沖の海域、マキン、タラワ両島の海域、いや南溟ばかりではない、大陸の奥地でも我が皇軍は必死の敢闘を続けてゐるのだと思ふとき、粛然たらざるを得ないのであつた。
思へば支那事変からこゝに幾星霜であらう。支那事変5年、それに大東亜戦争に展開して茲に3年、あしかけ8年といつてよからうが、日本はどこにそんな戦闘力を持つてゐたのであらう。敵米は、いや敵米のみではない。世界の殆どの国々は大東亜戦勃発の12月8日以前までは、日本は支那事変5箇年に疲れ果ててゐる。
思へば支那事変からこゝに幾星霜であらう。支那事変5年、それに大東亜戦争に展開して茲に3年、あしかけ8年といつてよからうが、日本はどこにそんな戦闘力を持つてゐたのであらう。敵米は、いや敵米のみではない。世界の殆どの国々は大東亜戦勃発の12月8日以前までは、日本は支那事変5箇年に疲れ果ててゐる。
米国にどんなに脅喝されても日本は対米戦争は起し得ないといふのが世界の通念であつたのだ。その日本がこの戦果の拡大を敢へて成し、今もその目覚ましい「亜細亜の亜細亜再建設の大業」に邁進してゐるのである。さうして、その歴史あつて未だかつてない大業恢弘の中に、これはまたどうであらう「世紀の偉業」水豊ダムの建設を着手し、今まさにその全完成を見ようとしてゐるのだ。
日本は外にかくまで大いなる戦ひを戦ひ、内にこの大いなる建設の勝利を確把してゐるのだ。世界が日本の力量測り知れずと驚歎する処に、この「水豊ダム建設」といふ実績がその一半を荷なつてゐることを見逃してはならないのである。(つづく)
三根謙一「水豊ダム素描」『朝鮮』1944(昭和19)年1月号、48-49頁。
「水豊ダム素描」(その2)はこちら
三根謙一「水豊ダム素描」『朝鮮』1944(昭和19)年1月号、48-49頁。
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790 km | |
2,300 m | |
1,040 m³/s | |
31,739 km² | |
白頭山(中国・北朝鮮国境) | |
黄海西朝鮮湾 |
「水豊ダム素描」(その2)はこちら
有史以来人類が成した最大の建造物でありとされてゐるエヂプトのピラミツドより遥かに2割方大きく、しかもそのビラミツドは10箇年の歳月と1億の人力とを要してゐるがその昔のことはともかく、敵米が世界に誇るグランドクレーにしても、ボルダーにしてもそのダムの完成までには8年10年を要し、ソ聯が鳴物入りで宣伝したドニエプルのダムにしても5箇年計画でゆかず10年の年月を費してゐるのだ。
それを我が「水豊ダム」は僅かに4箇年にしてその第一完成を見せ、世界一の純国産の発電機は昭和16年9月、大東亜戦争勃発以前に早やいともスムースな快調をもつて発電を開始したのである。
暘流8百粁(キロメートル)、人は古より「悠久千古の流」と嘆称した歴史の河「鴨緑江(おうりょくこう)」に、セメント80万噸(トン)を噛ませたのがこの「水豊ダム」である。それには2億5千万円の巨費と延人員4千万にのぼる建設戦士の辛苦敢闘が打ち込まれてゐるわけである。
アジア大陸から突出した朝鮮半島、その半島の根元に相当する地域に二つの大河が分流してゐるのが豆満江(とまんこう)と鴨緑江である。その一つの鴨緑江こそ「悠久千古の流」として九州全土より広大だといふ6万平方粁流域、それに大陸的降雨量曲線の跛行(はこう)の特異性をもつこの長流をガバと通せんぼしたのが「水豊ダム」の建設である。
暘流8百粁(キロメートル)、人は古より「悠久千古の流」と嘆称した歴史の河「鴨緑江(おうりょくこう)」に、セメント80万噸(トン)を噛ませたのがこの「水豊ダム」である。それには2億5千万円の巨費と延人員4千万にのぼる建設戦士の辛苦敢闘が打ち込まれてゐるわけである。
アジア大陸から突出した朝鮮半島、その半島の根元に相当する地域に二つの大河が分流してゐるのが豆満江(とまんこう)と鴨緑江である。その一つの鴨緑江こそ「悠久千古の流」として九州全土より広大だといふ6万平方粁流域、それに大陸的降雨量曲線の跛行(はこう)の特異性をもつこの長流をガバと通せんぼしたのが「水豊ダム」の建設である。
もともと朝鮮総督府の第二次発電水力調査によつて、鴨緑江が相当の発電水力量を包蔵することはほゞ確められてゐたのであるが、政治的にはこれが国境河川だといふ処に種々の難事があつたのである。それが、満洲国建国といふ東亜新生の黎明(れいめい)に一大飛躍をとつて、こゝに鴨緑江が「悠久の流れ」といふ歴史的様相から現実の若人としての逞(たくま)しき活躍に一転する契機を把み得たのである。
かくてこの鴨緑江を長さ574粁の湖と、高さ550米の人造滝を7つのダムによつて作り、流れる鴨緑江を完全に流れざる人造湖の連鎖と化し、そこに得た発電の全力量を鮮満綜合産業地帯に注ぎこんで、巨量の近代産業の血液たらしむべき電源完成が意図されて、昭和12年8月朝鮮総督府と満洲国政府との間に、それが正式調印をみたわけである。
×
水豊ダムは、計画された7つのダムの中で一番大きいのである。そのポケツトである人造湖が最大である。その最大のものに向つて失づ体当りしようといふのが出願者野口遵(のぐち・したがう)氏の闘魂であつた。実はちよつと溯(さかのぼ)つた昭和12年5月のこと、こゝの地質調査が開始されたときのことであるが、この地には僅かに朝鮮農家が七軒といふ、川に添つた淋しさ、それに満洲側に跳梁(ちょうりょう)する匪賊(ひぞく)が河を渡つて襲撃して来るといふ凄さ。その中に挺身したのである。
かくてこの鴨緑江を長さ574粁の湖と、高さ550米の人造滝を7つのダムによつて作り、流れる鴨緑江を完全に流れざる人造湖の連鎖と化し、そこに得た発電の全力量を鮮満綜合産業地帯に注ぎこんで、巨量の近代産業の血液たらしむべき電源完成が意図されて、昭和12年8月朝鮮総督府と満洲国政府との間に、それが正式調印をみたわけである。
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水豊ダムは、計画された7つのダムの中で一番大きいのである。そのポケツトである人造湖が最大である。その最大のものに向つて失づ体当りしようといふのが出願者野口遵(のぐち・したがう)氏の闘魂であつた。実はちよつと溯(さかのぼ)つた昭和12年5月のこと、こゝの地質調査が開始されたときのことであるが、この地には僅かに朝鮮農家が七軒といふ、川に添つた淋しさ、それに満洲側に跳梁(ちょうりょう)する匪賊(ひぞく)が河を渡つて襲撃して来るといふ凄さ。その中に挺身したのである。
さうして6月には野口遵氏、久保田豊氏、間組(はざまぐみ)西松組の代表といつた処が現地観察に出かけたのである。時あたかも、大水の直後のことで、この日本最大の大河は満々たる濁流四、五千噸の流水量である。「この水がどうなりませう。これだけの流水量の河か堰止めるなど全く夢見たような話ですよ。」と驚く。一行の中の調査先発隊の一員であつた佐藤時彦氏はそれに答へていふ。「私はこの河の冬を知つてゐます。こんな河と取組むには、自然にさからつてはいけない。
冬は百噸位の流れであるから、その自然の力の衰へた冬やればきつと征服出来ると思ふ。」この会話をじつと聞いてゐた野口氏は、突如、「やる!久保田君やらう」 剛毅岩をも砕く野口氏の闘魂は濁流滔々(とうとう)の大河に向つて決然言ひ放れたのである。
9月に工事設計は完成、10月にはいよいよ間組、西松組はこの大工事建設地に進発した。現地に乗込んで見れば国境はもうすつかり冬枯れの山々、粛条たる風の声、ぐつと南にまはつた冬の太陽の色にも一つの悲壮があつた。
9月に工事設計は完成、10月にはいよいよ間組、西松組はこの大工事建設地に進発した。現地に乗込んで見れば国境はもうすつかり冬枯れの山々、粛条たる風の声、ぐつと南にまはつた冬の太陽の色にも一つの悲壮があつた。
さうして対岸の満洲地域には、天然痘、腸チフス、冬でありながら赤痢までが猖獗(しょうけつ)して、日毎死体は水量減じた冬の河を流れてゆき、鳥がそれに群つてゐるといふ有様。その中に間組は朝鮮側、西松組は満洲側から仕事に取りかゝつたのである。
かくて11月には河の閉切り準備に着手したが、名にし負ふ大河、目のあたりにそれをみては、さてこの河が一体閉切れるものであらうかと再考されるのであつた。しかし男子一たぴ決したること、当つて砕けるより他ない。一同は河と心中する決心で起ち上がつたのである。
そのとき思ひ出されたのは、かつて西松組が信濃川でやつたことのある河中に三角錐形の木枠を立てる方法であつだ。その木枠を立てゝ、それに石を打込み、内側に木柵を二重に並べ、これに砂や粘土をつめて閉切り、そのまた内側にコンクリートグロツクを作るといふのである。
かくて11月には河の閉切り準備に着手したが、名にし負ふ大河、目のあたりにそれをみては、さてこの河が一体閉切れるものであらうかと再考されるのであつた。しかし男子一たぴ決したること、当つて砕けるより他ない。一同は河と心中する決心で起ち上がつたのである。
そのとき思ひ出されたのは、かつて西松組が信濃川でやつたことのある河中に三角錐形の木枠を立てる方法であつだ。その木枠を立てゝ、それに石を打込み、内側に木柵を二重に並べ、これに砂や粘土をつめて閉切り、そのまた内側にコンクリートグロツクを作るといふのである。
零下30度、汀上では40度といふ寒波の中でこの作業は開始された。寒さは人のからだを氷のやうに凝固する。用材のすべては凍結する、コンクリートの砂利も砂も水も凍てついてまゝにならぬ。それを一々温めなくてはならない。うそのやうな話だが、冬の河の力――自然力が低下してゐるうちに出来るだけ工事を進めておかなくでは大変なことになるのである。
×
出征者を敢然と送りながら、一方では本格的輸送路を一日も早く確立しなくてはならないと、京義線定州駅からの80粁の平北鉄道の敷設工事が進められて行った。この鉄道は、やかて60万噸のシヤフトを運び込まなくてはならない鉄道なので、場当りの工事ではいけない。
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出征者を敢然と送りながら、一方では本格的輸送路を一日も早く確立しなくてはならないと、京義線定州駅からの80粁の平北鉄道の敷設工事が進められて行った。この鉄道は、やかて60万噸のシヤフトを運び込まなくてはならない鉄道なので、場当りの工事ではいけない。
世界一の発電機の輸送としての堅実性が要請されてゐるのだ。しかしこの80粁は、山また山、山を貫いては山に喰い込む山間鉄道工事である。そこにも建設の辛苦は、建設の人々を悩ますべぐ冷然と存在してゐたのである。だか如何に自然の抵抗が冷然と存在しようと、入間の決意と行動はそれらを蹴散らしてゆく。この鉄道工事は昭和14年4月、僅かに1年3箇月といふ短期間で開通をみたのである。(つづく)
三根謙一「水豊ダム素描」『朝鮮』1944(昭和19)年1月号、49-52頁。
三根謙一「水豊ダム素描」『朝鮮』1944(昭和19)年1月号、49-52頁。
1874 | 創業 | |
1937 | 9 | 株式会社西松組を設立 |
1948 | 7 | 社名を西松建設株式会社と改称 |